阿弥陀寺の歴史(史料と解説)

延応元年(1239)

伊勢国安濃津 祐範 により創建。元は真言宗寺院で曩謨寺と称した。
「我東漸の願いあり、これより東有縁の地を求めて、堂宇を建て、我が分身を安置せよ」という国府の弥陀からの夢告を受け建立。当寺に伝わる由緒記には「末寺十数か寺を擁する」と伝わるが、祐範から阿弥陀寺初代住職良増までには約250年の間があり、この間についての史料は残っていないため、これらは伝説にすぎない。

ただし『源平盛衰記』『十六夜日記』『沙石集』のなかに見られる「下津」に関する記載(下記参照)により、平安末期から曩謨寺建立となった鎌倉期におけるこの地の往来の盛んであった様子とそこを拠点とした規模の大きさなどが推測できる。

  • 『源平盛衰記』(宝治元(1247)〜建長元(1249)年ごろ成立。)
      治承五(1181)年三月 墨俣合戦の頃
      「十朗藏人行家小熊の陣をおとされ尾張國おりどに陣す云々」
  • 『十六夜日記』(阿仏尼著。弘安五(1282)年ごろ成立)
      建治三(1277)年1十月十六 京を発って東へ下ったのち
      「二十日をはりのくにおりどといふうまやを行く」
  • 『沙石集』(無住一円著。弘安六(1283)年成立。)
      薬師観音利益事「本國へ下ル程ニ下津河水マサリテ」
      巻六 袈裟徳事「去文永七(1270)年七月十七日尾張國折津ノ宿ニ雷神落テ」
      巻八 馬カヘタル事「雄馬ニカウベシトテ下津ノ市ニ行ケル道ニテ」

文明年間(1469〜1487)

蓮如上人が訪れたのを契機として、浄土真宗に改宗。 寺伝によれば「六字名号」(稲沢市指定文化財)は、その際蓮如上人より付与されたものとされる。



史料@六字名号


六字名号 一幅
   室町時代
   紙本墨書
    縦七九・八p
    横三〇・一p
   (蓮如筆)
   稲沢市指定文化財




永祿五年(1562) 七月二十一日、


史料A織田信長裁許状

   当寺如前々
   門家並末寺共
   申付迄裁許
   可在之猶不可
   有相違者也仍状
   如件
   永祿五
    七月廿一日 信長(花押)
      下津
      阿弥陀寺


史料A織田信長裁許状...信長の花押について

寺伝では、この書状の差出人は信長であるとされていた。
信長の花押には図@のように時代別に三種類が知られているが、この書状は信長が天下統一となる永祿十一年以前のものなので、初期の花押がこれに一致する(図A参照)。

花押部分拡大 図@ 図A

元龜元年(1570)

「長島一向一揆」
信長に対抗する石山本願寺の命に応じ、木曽川河口デルタ長島の真宗に帰依していた農民が蜂起。阿弥陀寺第三世住職の良意も末寺門信徒等を率いてこれに加わる。

これに対し信長は1571,73(天正1),74の三度に渡って美濃、尾張、伊勢三国の本願寺教団を攻撃し屈服させた。阿弥陀寺が一向一揆に加わったという史料は残っていないが、郷土の言い伝えに“阿弥陀寺も焼討に遭い、七堂伽藍を焼失した”とある。現在の本尊は、寛永十三(1636)年十二月二十一日1宣如上人下附の木像方便法身の尊形である。

末寺の有無については、寺伝のほかに『織田信長裁許状』(史料A)のなかに「当寺如前々 門家並末寺共」とあることなどから、室町期には末寺を抱える規模の寺院であったかと推測される。
(ただし「門家」の記述が「門徒」を意味しているのかについては、考察がなされていない。)

焼討の後、寺の規模は縮小し文祿二(1593)年頃に現在の規模に回復したと伝えられる。

この頃本願寺第十三世の證如から絵像「方便法信の尊形」(「絹本着色阿弥陀如来像」稲沢市指定文化財)(史料B)が下附されている。裏書はあるものの年号はない。ただし『證如上人天文日記』の天文十(1541)年十月二十三日の条にある「就当番の儀折津阿弥陀寺挿令持参候」というくだりが、この事を伝えているものと推測される。



史料B阿弥陀如来像


阿弥陀如来像 一幅
   室町時代(天文十(一五四一)頃か。)
   絹本着色
    縦八六・五p
    横三七・五p
稲沢市指定文化財

(絵像裏書)
   「  本願寺釋證如(花押)
          折津
           阿弥陀寺
    方便法身尊形      」
   


慶長五年(1600)

本願寺第十二世教如上人の関東御下向並びに御帰洛の際に、当寺第四世住職の慶祐が門徒を引き連れその警護にあたったと伝えられる。


慶長十一年(1606)

教如上人より「蓮如上人眞影」(稲沢市指定文化財)(史料C)が附下される。これは慶長五年の警護に対しての、教如上人から慶祐への感謝の気持ちであると伝えられているが、この伝承は「教如上人礼状」(史料D)と因縁づけるための伝承と思われる。



史料C蓮如上人眞影


蓮如上人眞影 一幅
   江戸初期(慶長十一年(一六〇六)
   絹本着色
    縦九四・三p
    横三七・六p
稲沢市指定文化財

(絵像裏書)
   「  本願寺釋教如(花押)
       慶長捨一丙午 稔十一月九日
        尾州中嶋郡下津村
        阿弥陀寺常住物也
    蓮如上人眞影         」
   


寛永八辛未年(1631)

「教如上人礼状」(書状 二通)(史料D)
ただし裏書に「本願寺釋宣如(花押)/ 寛永第八辛未(月日欠)/ 尾州中島郡下津村阿弥■物也」とあることから、この書状は宣如のものかと見られている。当寺には寛永九年四月に宣如上人が日光参拝並びに家光公へのお悔やみ言上のために御下向の際、当寺へ立ち寄ったことについての書状との推測もあるが、年数が前後しているので因縁付けは難しい。



史料D教如上人礼状

縦三十・〇p / 横四七・六p

 「御門跡様木曽
  路被成御上洛
  今日犬山まで
  御座候明八日ニ
  くわなへ御とをり
  なされ 於其方
  ひるの御やすみ
  なさるべき由候
  諸事談合可
  申候間興善寺迄
  早々可有御出候
  待候恐々謹言
      粟津
  五月廿日(花押)」     


 「   猶々今度仕
     俄之儀御造
   御門主不慮
  作るとも御礼難申
   被成御座候 而
       其御元
  貴寺尽残ト候
   御大儀難申盡
  仕舞候ハバ
   其他同行衆
  待申候 以上
   馳走之通具
    申上候御機嫌
   よく御在 て各
   可爲満足候昨日
   早々御越し大慶の
   至候 くわしく
口上相含候間
不能一ニ恐々
謹言 
 五月十日(花押)」

書状 二通
縦三十・六p / 横四七・六p    


同年(1631)

「親鸞聖人御影像」(史料E)


(絵像裏書)


親鸞聖人御影像 一幅
寛永八辛未年(一六三一)
   絹本着色
    縦七〇・四p
    横四六・五p

(絵像裏書)
    縦五四・二p
    横二六・八p
「     本願寺釋宣如(花押)
        寛永八辛未[月日決]
 親鸞聖人御影 尾州中島郡下津村阿弥[(陀寺常什)]
            物也
                願主[   ]    


万治三(1660)

「上宮太子御眞影」(史料F)


(絵像裏書)


上宮太子(聖徳太子)御眞影 一幅
万治三庚子年(一六六〇)
   絹本着色
    縦一〇二・二p
    横四七・八p

(絵像裏書)
    縦六九・〇p
    横二七・一p
「      本願寺釋琢如(花押)
 上宮太子眞影 反治第三期庚子陽月廿日 書之
            尾州中島郡下津村阿弥陀寺
            常住物也
                      願主釋慶秀」
   



「三朝高祖御眞影」(史料G)


(絵像裏書)


三朝高祖御眞影 一幅
万治三庚子年(一六六〇)
   絹本着色
    縦一〇二・五p
    横四七・〇p

(絵像裏書)
「      本願寺釋琢如(花押)
 三朝高祖真影 萬治第三歳庚子初冬廿日
            尾州中島郡下津村阿弥陀寺
            常住物也
                      願主釋慶秀」
   


江戸時代後期(1800年頃)以降

「教如厳如連座像」(史料H)



教如厳如連座像 一幅
   絹本着色
    縦九七・九p
    横四一・六p

   



「二十四輩書状」(史料I)
常陸国柿岡村如来寺(乗念房開基)の分地の二十四輩地となる。


二十四輩書状 一通
    縦一四・〇p
    横五九・七p    




「阿弥陀寺の歴史」に戻る