日々雑感2006


受けたご恩はどう返す?               (2006年12月9日)

 新しい総理大臣が就任してからもう二ヶ月ほど経ちました。世の中の状況もあって、ここまでのところは教育関連の制度を変えていこうとする動きが色濃く出ているように思います。その中身をよく見てみると、根っこにあるのは、「国家は国民に恩恵を与えているのだから、国民は国家の要請に従ってその恩を正しく返す必要がある」という観念のようです。国家が国民に「恩返し」を求めるというのは、私達一人一人が共に生きていくために共通のルールを持ち、守っていこうとする本来の国の形とはどこかズレがあるように感じます。
 そもそも「恩返し」などということが本当に出来るものなのでしょうか。どうやったって返すことが出来ないようなものを戴いたのが本当の恩なんじゃないかと思います。条件が整えば返せてしまうようなものならば、それは恩ではなくて単なる貸し借りの関係です。困った時にお金を借りたとして、いずれそのお金は返せても、その時に貸してくれた相手の気持ちはどうやったって返せません。恩というのはそういうものなんじゃないでしょうか。
 さて、私の拠り所とする浄土真宗においては、「恩返し」ではなく「報恩」という言葉を用います。当寺においても十二月上旬には宗祖親鸞聖人のご命日の法要である「報恩講」という行事が営まれます。この「恩に報いる」というのはどういうことかというと、戴いた恩を無駄にしないということです。これは恩を戴いた相手の希望通りの事をして生きていくということではなくて、その方の思いを自分の中でしっかりと受け止めて判断しながら、自分の人生を精一杯に行き抜いていくということです。先ほどの教育というものにしても、教育する側の思い通りの人材が出来上がるようなものではなく、教育を受けた人がそれを無駄にせずに生きていこうと思うようなものであるべきなんじゃないかと私は思います。


いじめと自殺                    (2006年11月1日)

 このところ、子供がいじめを苦に自殺したという事件をよく耳にします。いじめも、それが原因による自殺も、昨今に始まった事ではありません。いくら大人が押さえつけようとしても、色々な性格の子がいて色々な状況があるのですから、残念ながらいじめを全く無くすという事は難しいんじゃないかと思います。とはいえ、そのせいで自殺をしなくてはならなくなってしまう子を無くしていく事は出来るんじゃないかとも思えるのです。
 よくよく考えてみれば、いじめをする側にとって相手の事を気に懸けている時間なんてほんのわずかのものでしょう。自分に置き換えてみれば、どんなに好きな人の事だって一日の半分も気に懸けていられたら上出来でしょうに、いじめる相手の事なんてそうそう気にしてはいられません。ところがいじめを受ける側にしてみると、それが人生の全てのように受け取られてしまうものなのです。本当は、いじめを受ける人間関係以外にも、塾や習い事、地域や家族といった、その他の人間関係もその子の周りには無数に広がっているはずです。けれども、まさに今いじめを受けて切羽詰っている子に自らそれに気づけというのは酷な話です。
 いじめそのものを無くそうとする事はもちろん大切な事だと思います。とはいえ、大人がそれを見つけ出し抑制していくのには限界があるでしょう。そこで学校の落ち度を探してばかりいても自殺は無くなりません。ですから、ただいじめを無くそうというだけでなく、あなたといじめる子との間の世界だけが世の中の全てじゃないんだと、あなたをいじめる人達よりも、もっともっとあなたの事を心に懸けて、あなたの事を必要としている者もここにいるんだと、そこに気づいてもらう努力が、私達には必要とされているんじゃないかと思うのです。


ワールド・トレード・センター           (2006年10月17日)

 先日から、9.11の世界貿易センタービルのテロ事件を題材にした映画が公開されています。好き嫌いは別として、近頃のハリウッドらしい感動のヒューマンドラマに仕上がっているようです。今年はあの事件からちょうど五年目ということもあって、いろいろな企画を目にしました。その中で私が興味を持ったのが、新聞に掲載されていた、米国で世論調査をしている民間調査機関の方のインタビュー記事でした。
 その方は、事件の後の米国社会を分析して、「安全のためなら、米国人は進んで自分達の自由を犠牲にしようとしている」と言っておられます。確かに、あれだけ個人の権利やプライバシーに対して敏感なイメージのある米国人が、通信を監視されたり、素性を洗いざらい調べ上げられる安全チェックを受け入れたりしているのには驚かされます。「国家が安全保障上の危機に直面した時、米国民は報道の自由や個人の人権などを喜んで犠牲にし、政府により大きな権限を与えようとの機運が強まる傾向がある」とのことです。
 この記事を読んで、ちょうど数ヶ月前に目にしたある方のコラムを思い出しました。そこでは、今の日本は国の重大な政策が善悪よりも、国益を優先に決められる風潮が強まっていて、国民も大義の無い行為に心情的には反対なのに、「今の日米関係では従うしかないのだ」と妙に理解を示そうとする、と言われていました。特に近隣の国でミサイル試射や核実験といったキナ臭い事件が起こっている今、アフガンやイラクの人々を傷つけることには反対だけど、日本の国も守ってもらわなければならないし、自分の正義感のためだけに日米関係に波風を立てるのはやめておこうと判断する気持ちも分かるような気はします。
 何でもかんでも自分の正義感や信条を主張するのが良い事とは思いませんし、自分の気持ちを抑えて大きな立場に立って物事を判断する事を美徳とするのは日本人の良い所の一つだとは思います。けれども、事情を理解して大きな視点で物事を判断しているような気になりながら、結果的に、自分の国の安全を守るためには遠い中東の国の人々の命が奪われていくのは致し方ない事だという判断を下してしまっているようでは、自己中心的な行為と何ら変わりがないと思います。大きな視点でものを見ている気になりながら、実は狭い利己的な視点に留まっているのではないかという事、現実をごまかして自分の美徳を満足させるだけの事に留まっているのではないかという事は、私自身によくよく確かめていかなければいけない事柄だと思わされます。


サリン事件、喉元すぎれば傍観者           (2006年10月1日)

 先日、オウム真理教元代表の麻原彰晃被告の死刑が確定しました。オウム事件関連のニュースがあると、よく松本サリン事件の被害者である河野さんの記事を目にします。重度の被害に遭われた妻を介護しながら、犯罪被害者の支援対策に尽力されたり、報道被害に関わる運動をされたりしていて、いつも「気の毒になあ」「凄いなあ」という気持ちでその姿を見させてもらってきました。
 これまでの一連の長いオウム事件・裁判の様子を、私は一貫して、教団を加害者、事件に遭われた方を被害者として、傍観者の立場から眺めて来ました。けれどもよく思い返してみれば、この松本サリン事件は、世間をあげて河野さんを犯人扱いするという過ちを侵した事件でした。ニュースがそういうふうに扱っていたのだから私達にはどうしようもなかったのだと言っても、被害者にとっては仕方ないで済むことではありません。実質、私自身が加害者の立場にあった事件だったのです。
 河野さんは先の判決を受けて、「恨みや憎しみの感情によって不幸の上に不幸を重ねたくない」と、被告に対して怨恨の情は無いことを語っておられます。それよりも、事件後の精力的な活動の姿を見させてもらっていると、自分自身が加害者であった現実を忘れて傍観者を決め込んでいる私達の現状を、いったいどんな気持ちで見ておられるのか、身につまされる思いがします。直接罪を犯すことはもちろんですが、人を傷つけたことに無自覚であるということは、より一層にタチの悪い事なのかもしれません。今回の事件において私自身が加害者であったという事実は、決して忘れてはいけないことだと省みさせられました。


ウチの先祖、ヨソの先祖               (2006年8月16日)

 今年もお盆の季節がやってきて、当寺にも大勢の方がお参りになられました。浄土真宗では基本的に個人のお墓は作らない事になっているのですが、個々のお墓を作りたいと言われる方には、できるだけ「○○家の墓」ではなく、「南無阿弥陀仏」か「倶会一処」という銘を入れていただいています。これは「共に一つの場所で出会っている」という意味です。
 亡くなった方をよく「ホトケさん」と呼びますが、仏様はあらゆる人間に対して区別をしません。ですから、先祖が仏様になるという事は、○○家というしがらみを超えた、今生きている人皆にとっての先祖であるということです。血の繋がりが有ろうと無かろうと、先に生きられたあらゆる人々のおかげで、今自分の生きるこの世の中はあるのです。墓地に行って家のお墓に参れば、後は素通りして帰るというのでなく、今の自分を支えてくれるすべての先祖に頭が下がる、そういう心が戴けるのが本当のお墓参りではないでしょうか。
 ちょうどお盆の八月十五日、日本の首相が靖国神社に参拝しました。確かに、戦争で亡くなられた人々に思いを馳せて不戦の誓いをする事は大切なことだと思います。けれども、それが自分の国の人々、自分と同じ民族というところに留まってしまっていては、せっかくのその気持ちも活きてこないのではないかと思います。言うまでもなく、戦争の犠牲者は、戦争に駆り出された人、その人達が命を奪わなければいけなかった人、そしてそれぞれの家族など、たどって行けば無数に広がっていくのです。私達の居るこの世の中は無限に広く、その中で私達は無数の人々と関わること無くしては生きられません。それを見失って、自分の家族だけ、自分の国の人だけのために参拝するのであっては、その対象がどういった施設で、それがどういった心でもってであろうとも、独りよがりの自己満足になってしまうのではないかと思います。

 

挨拶する子が良い子?                (2006年8月2日)

 夏休みになりました。近所を歩いていると外で遊んでいる子供達の姿をちらほらと見かけます。そんな時、思いがけず「こんにちは」と挨拶されたりすると、何となく嬉しい気持ちがするものです。近頃の子供は外で会っても挨拶もしないと嘆かれる声をよく耳にしますが、私自身は、しっかりと挨拶をする子供が結構いるもんだなという印象を受ける事の方が多いです。昔の子供達がどんなものだったかを知らないので、もともと子供達にかける期待の大きさが違うということもあるのでしょうか。
 どちらにしても、挨拶があると人間関係がうまくいっているように感じられるので、私達はついつい過剰に挨拶というものを他人に要求してしまいがちなようです。子供に対しても「挨拶する子は良い子」という、自分の望む子供像を押し付けている面も無いとは言えないように思います。けれども、特に世渡りというものに慣れていない子供のうちは、態度に個々の性格がストレートに現われてくるものなので、内気な子供などは本当は挨拶したくてもなかなか声が出せないということもあるでしょう。そう考えると、挨拶を良い人であることの絶対条件として他人に求めてしまうのは、相手の個性を思いやらない少々無神経な事なのかもしれません。
 とはいえ、やっぱり挨拶を交わせる関係というのは気持ちのいいものです。それならば、難しい顔をして相手が挨拶するのを待ち受けているのではなく、どんな状況、どんな相手であってもこちらから声を掛けていけばよいことです。本当に自分にとって挨拶が大切なものならば、相手から挨拶が無いからといって腹の立つような、そんな自分の心を狭くするようなものではないはずです。相手に強要しなくても、自分が挨拶をすればそれで満たされる、そこにたまたま挨拶を返してくれる子がいたならば尚嬉しい、そういうものなんじゃないでしょうか。


戦争の危機感                    (2006年7月15日)

 先日の北朝鮮のミサイル発射事件はまだ記憶に新しいところです。以来、色々な専門家の人が北朝鮮の意図を解説されていたものの、なぜ今あんな事をするのか、どうにもその狙いが分かりにくいだけに、ますます不気味さが募ります。この事件に関連して、中国のマスコミでは日本に対する辛辣な論評が数多く見られるそうです。これを機に日本は国連での発言力強化を狙っているとか、軍事面の増強を図るよい口実ができたので、日本にとってミサイル発射は得であったとさえ言われています。
 様々な政治的側面もあってこういった論調になるのでしょうが、こううがった見方をされてしまうと一日本人としては、あきれるというか、少々腹立たしささえ覚えてしまいます。ただ、一時の感情で腹を立てているだけでは、そこに隠された人々の心を感じ取る事はできません。実際には六十年も前にあった戦争が、未だにその被害国に警戒感を抱かせているのだという事も見逃すわけにはいかないと思います。
 日本においても、数少なくなられた戦争経験者の方達が、近年の有事法制制定の動きや愛国心教育などに戦前の面影を感じて、危機感を訴えておられたりもします。少々神経質になりすぎなんじゃないかと言う人もいますが、そうやって簡単に切り捨てられるものでもないのじゃないでしょうか。大部分の日本人にとって戦争は、過去の歴史となっています。けれども、実際にそれを体験された人達には、戦争というものはどれだけの時を経ても、これだけ敏感に危機感・警戒感を引き起こさせるような大変なものとして心に焼き付いているのだということです。私達は、その事をもっと真摯に受け止めていかなくてはいけないんじゃないかと思います。


「知らなかった」じゃ済まない事           (2006年6月25日)

 このところ毎日伝えられる事故のニュースのおかげで、エレベーターに乗る時はついついメーカー名を探してしまいます。これまではエレベーターの安全性についてなど気にも留めなかったのですが、考えてみればワイヤー一本で空中に吊るされているのですから、その安全性というのは切実な問題であるはずです。自分の命にかかわる事なのに、いざ事故が起こるまではただ漫然と利用していたと思うと、自分自身の無感覚さに驚かされます。自分の事でさえこんなものなのですから、他人の事となったら、なおさら無神経にやり過ごしてきた事柄も多いんだろうなあと改めて思い直させられています。
 先日ハンセン病問題のシンポジウムに行ってきました。十年前に「らい予防法」が廃止された時、戦後半世紀もたった今の世の中に、何の科学的根拠も無いままに患者を一般社会から強制隔離するのを認めた法律が、いまだに存在していたのだということを知って、愕然とした覚えがあります。ハンセン病治療に取り組む若いお医者さんが、「強制隔離が行われた時代にはまだ生まれていない自分達には、その責任は無いかもしれない。けれども、その為にいまだに私達の社会から排除され、自由を制限された生活を送らざるを得ないでいる人達を見過ごしていくのなら、それは今の時代の私達の責任だ。」と言われていたのが心に残っています。自分が気にも留めないでいたことによって、深く傷つけてしまっている人々が、実際にはたくさんいるのです。
 よく私なども、「知らなかったのだからどうしようもない」という言い訳をしてしまいます。けれども、知らないということそのものの罪深さは、自分が想像する以上のものなのです。より多くの物事に目を開き、耳を傾ける姿勢を持たないで、「過去の事だから、遠いところの事だから」と言い訳をして、事実この世界に起こっていることを見過ごしていくのでは、なんだか情けない人生のように思えてしまいます。


ダヴィンチ・コード                 (2006年6月13日)

 先日、映画のダヴィンチ・コードを見てきました。ちょうどその直前に原作を読んだ後だったので、ついつい比較しながら見てしまったのですが、原作の盛りだくさんな内容を短い映像の中に表そうと随分苦労したんだろうな、という印象でした。さてそれで、ここから先は少し原作のネタに触れる部分が出てくるので、これから原作を読もうと思っている方には注意してもらいたいと思います。
 この物語がこれだけ世界的なベストセラーになった理由は、ストーリーと平行して独創的なキリスト教解釈が展開されたところにあるようです。多くのキリスト教の宗派が、イエス・キリストをただの人間ではない、特別な存在としてきた歴史を持つのに対して、この物語の中では、イエスを一人の人間として、結婚もしていたし、その子孫が現在にも生きているという説でもってストーリーが進められていきます。イエスが起こした奇跡のエピソードは山のように残されていますし、それを信じてきた昔ながらのキリスト教団体にしてみればイエスの神秘性を冒涜されたような思いでしょうから、激しい抗議行動が各地で起こっていたのも頷ける気がします。
 どんな宗教でも教祖に神秘性を持たせる傾向は見えますが、そもそもそれは、教祖の語る大切な教えの内容を如何に後世に伝えていくかという、先人達の苦労の生み出した産物です。それがいつの間にやらひっくり返って、神秘的な逸話にばかり目を奪われ、特殊な力を持った特別な人が語った言葉だから大切なものに違いない、と信じ込む現象がよく起こっています。これは生活の中の儀式や慣習にも言えることです。本当に大切なことを伝えるために整えられた形式なのに、形のほうにばかり気を取られて、それが伝える大切な内容を見失っていたのでは本末転倒です。宗教のことだけに限らず、私達は、装飾された部分を本物だと思い込んで、それが表そうとしている本質の部分を見失っていることがままあるように思います。


国を守るというのはどういうこと?          (2006年5月19日)

 ゴールデンウィークが終わって二週間ほどになります。近頃は祝日が多くなって、いったい自分が何の日で休んでいるのか分からなくなってしまうことも多いのですが、ご存知のように今月の最初の祝日は「憲法記念日」でした。それにちなんでか、改憲の是非を論じる報道をよく目にしました。国民投票法案が今国会で提出されるかは微妙な状況のようですが、どうやら憲法、特に第九条を改変して、気兼ねなく軍事力を行使できる国にしようという動きが加速してきているようです。
 私個人としては国が軍事力を持つことには反対なのですが、そう言うと、「じゃあ現に敵が攻めてきたらお前はただやられるままなのか、軍事力も持たずにどうやって国を守るつもりだ」と問い詰められることがあリます。しかし私にはそういう主張は、かえって現実離れしているように聞こえるのです。これだけ多くの所に核兵器が散らばって、ボタンひとつで一瞬にして国ひとつが消えてしまう様な時代に、本当に軍事力で国が守れるのでしょうか。そもそもこの日本という国について言えば、これだけ食料自給率も低くて、エネルギー資源も乏しい所を誰が好き好んで命を懸けてまで攻め込もうと思うのでしょう。攻める理由としては、アメリカや日本の軍事力を恐れる国が、やられる前にやってしまえと攻撃するくらいの事しか考えられないような気がします。
 もしこの国が軍事力を放棄して、今現在、在日米軍や自衛隊に使っている莫大なお金を、本当に困っている人や物のために使ってもらったなら、わざわざそんな国を攻めようなんて考えもつかないんじゃないでしょうか。力で攻められるのを力で防ごうとすれば、相手はよりいっそう力を込めてきます。逆にどこに対しても温かい態度を取っていれば、そんな相手を攻めようという発想すら浮かばないものです。それならば、最初から攻めようという気を起こさせないお国柄になったほうが、よっぽど現実的な国の守り方のように私には思えます。


死ぬということ、生きるということ          (2006年4月15日)

 富山県の病院で人工呼吸器が取り外された一件を契機に、「尊厳死」について色々な議論が交わされています。延命治療の是非については、周りの者の負担が大変、何よりもそんな状態で生かされる患者が気の毒だ、という意見もあれば、どんな形でも生きられるなら生きていて欲しい、もしかしたら将来画期的な治療法が見つかるかもしれない、というような、人それぞれの考え方が聞かれます。
 私達は、元気な時には「人間いつかは死ぬんだから」と達観したようなことを冗談めかして言うこともできますが、本当にいざとなった時には案外そうも言っていられないようです。ある医師の話では、患者の意識のあるうちに本人の意思を確認しておこうとしたところ、「手を抜くな、もっと頑張ってくれ」と家族に詰め寄られ、挙句に冷たい先生だというレッテルを貼られてしまったということです。確かに、人間は生きている以上死ぬことは当然な事だと頭ではわかっていても、真剣に「死」ということを考える段になると、どうしても「縁起でもない」と逃げ腰になってしまいます。
 真剣に「死」を考えるということは、元気なうちに人工呼吸器をつけるかどうか決めておくとか、自分の葬式費用を用意しておくとかいうことではありません。自分にどういう意思があろうと、死ぬのは他でもないこの自分なのですから、その時どうするかは残った周りの人達にすべて任せるしかない事柄です。自分に都合のいい見込みを立てて人生を送るのではなく、いざという時には周りのものにすべてを任せていくしかない身を生きているんだという事実を受け止めて、その上で精一杯の日常を送れるかどうかということが、地に足の着いた人生を送るためのミソなのではないかと思います。


イスラム法に思う日本の今              (2006年3月26日)

 アフガニスタンで、イスラム教からキリスト教に改宗した男性が他宗教への改宗を禁じたイスラム法に反するため、死刑宣告を受けるかもしれない危機にさらされているということです。そこで現在は欧米各国がアフガン政府へ寛大な処遇を求めて働きかけています。
 改宗の詳しい事情はわかりませんが、この男性は現在41歳で、改宗したのは16年前ということですから、青年期の最も敏感に自分の内面が見つめ直される時分の事です。幼い頃から当たり前のように信じるものだとされてきた自分の宗教に、ようやく主体的に向き合える年齢になった時、それを改める自由がいつの間にか奪われていたという事なのではないかと思います。
 現代の私達の感覚からすると、法律によって生まれながらに信仰の自由が奪われてしまっているというのは、ずいぶん野蛮なことのように思えます。しかしよく考えてみると、これは遠い国のお話ではありません。私達が生まれによって自由を奪ってしまっている人たちは実際にはたくさんいます。その際たるものが「日本の象徴」という言葉で私達が担ぎ上げている人達ではないでしょうか。私達の勝手な思い入れで、ただその家庭に生まれたというだけの一人の人間の人生を縛り付けているということは、本当は大変な暴挙を犯しているんではないかと考えさせられます。

  

西洋の自由主義                   (2006年2月12日)

 昨年秋にデンマーク紙が掲載したイスラム教の預言者ムハマンドの風刺画に端を発して、イスラム社会と欧州各国の間で様々な事件が相次いでいます。そんな昔の出来事がなぜ今頃になって大騒ぎを引き起こしているのでしょう。どうやら、イスラム社会の抗議に対して欧州各国の新聞が「表現の自由を守る」という理由でこの風刺画を転載した事が対立を深くしたようです。
 欧米ではこういう時「表現の自由」という言葉がよく使われます。確かに自由にものを言えない状況は、一部の人達の意志で私達全体の意思がコントロールされる事にもなりかねないとても危険なことです。そういった意味では非常に大切な事なのですが、そこでよく考えてみなければならないのが、その「自由」の中身です。
 自由というのは「何でも出来る」ということであって「何をしたって良い」と認められている訳では無いのではないでしょうか。何でも出来る世の中だからこそ、それを思い止まる自由も私達は持ち合わせているということです。自由に出来るから勝手気ままにしても許されるというのではなく、人と人とが繋がりあって生きているこの世界においては、価値観の違う相手を自分の主観によって傷つけていないかと思い返すことが、私たち一人一人に委ねられた責任なのではないかと思います。


IT長者とマスメディア               (2006年1月24日)

 某有名インターネット企業の社長が株取引の違反で逮捕され、各報道機関も様々な角度からこの事件を取り上げました。あれだけ時代の寵児ともてはやしていた人物に対して、手の平を返したような批判の嵐には少々驚かされましたが、いくらなんでも、貧しい生い立ちの反動から拝金主義になっていったというような、個人の価値観の形成過程の推測までして批評を加えるのはちょっとやりすぎのように感じられました。
 今回の一連の報道で気になったのが、ただ法律違反を非難するというだけでなく、彼らのような人達の理念そのものを否定しようとする姿勢がそこここで見られたことです。もちろん私達が共に生きていくためには共通の規則を持ち、それを守っていくことは大切なことだと思います。それを破った今回の事件は非難されて当然なのでしょう。けれども、彼らのお金儲けに対する考え方をまるで醜悪なもののように扱うのはどこか的が外れているように思います。
 確かに数字上だけでお金を稼ぐ彼らのやり方には私も違和感を感じてしまいます。しかし、それも私達の社会の規則内で出来ることである以上、実際にモノを作り出してお金を稼ぐことと同じで、どちらも一つのお金儲けの方法であることには変わり無いはずです。自分の価値観にそぐわないものであるからといって、一つの事件をダシにしてそういう価値観の人達全体に対して一斉に非難を浴びせるような姿勢になってしまうのは、ちょっと怖い世の中のように思います。


実は今年は戦後60年でした                 (2005年)

 あまり大きく取り上げられることはありませんでしたが、今年は日本の戦後六十年にあたる節目の年でもあり、各地で様々な集会が開かれていました。そうした中、私も先日ある講演会で戦争体験をされた方のお話をお聞きする機会がありました。
 その方はたまたま終戦まで一人の人間も殺さずに済んだらしいのですが、一度隣に座っていた同僚が捕虜を射殺するように上官から命令されるという事があったそうです。もしその時に命令されたのが自分であったなら、やはり自分も人を殺したのだろうかということが、六十年たった今でも心に引っかかっていると言っておられました。これまでは戦争というと、大勢の人が殺される悲惨なものだ、巻き込まれれば自分も殺されるかもしれない恐ろしいものだという印象だけでしたが、さらには自分が人を殺すことになってしまうかも知れない恐ろしさを持っているということに気づかされました。
 普段は自分のことくらい自分で始末がつけられると思い込んでいる私ですが、場合によっては人殺しさえやってしまうであろうと思うと、少々自分を過信していたんだなと考え直させられます。自分自身の事をよく見極めて、少しでも自分が人殺しをしてしまう危険を減らそうと、戦争放棄を誓った憲法九条を大切にしてきた先人達の心が響いてくる気がします。

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