育てられ日記


8歳11か月/2歳11か月              (2019年5月)

 新しい年度が始まり一か月が過ぎました。早いもので、息子はもう小学三年生です。新学年の新しい教科書をもらって帰ってきた日のこと、それを見ていた妻が、「最近の教科書にはこんなことが書いてあるんだね」と、真新しい教科書の裏表紙を見せてくれました。そこには、『この教科書は、これからの日本を担う皆さんへの期待をこめ、税金によって無償で支給されています。大切に使いましょう』と書かれていました。詳しくは知りませんが、どの出版社の教科書にも書かれているようですし、今の教科書には必須の文言なのでしょうか。
 どうやら、学ぶことができることへの感謝を促す文章のようですが、これはいったい誰が誰に向けて言っている言葉なのでしょう。国から学生への言葉でしょうか、大人から子供への言葉でしょうか、どちらにしても何か違和感を感じてしまいます。憲法にもあるように、子供の学ぶ権利を保障するのは国の義務です。また、学べたことに感謝するのが私たち大人であって、次の世代にその環境を伝え残していく責任を負うのは当たり前のことです。ことさらに子供たちにそのことを感謝するように仕向けるのはどこかおかしく感じます。
 近頃見失われがちな「感謝の心」を確かめるのは大切なことですが、感謝の心をはき違えると、それは人間の心を縛り付けるものにもなり得ます。「こうしてもらったから、こうしなければ」「○○のおかげだから、言うことをきかなければ」と、負い目を感じて育つ子供になって欲しいとは私には思えません。


8歳1か月/2歳1か月              (2018年7月)

 政治家の方が、「このごろ、子供を産まない方が幸せじゃないかと勝手なことを考える人がいる」「今は食べるのに困る家はない。こんなに素晴らしい幸せな国はない」と発言されたそうです。話の流れからすると、おそらく、「どうしても生活に困るわけではないのに、子どもがいると自分の楽しみに時間も費用も費やせないからという理由で子どもを持たない選択をする人たちがいる」ことを批判されたのだと思われます。
 それぞれの人生に対する考え方に口を挟むのは余計なお世話だと思いますし、「今は食べるのに困る家はない」というご意見は、現在の貧困問題の現実とは全くかけ離れていると思いますが、「子どもを産まない方が幸せじゃないかと考える」ことについては、考えさせられるところもあるように思います。特別子ども好きでもない人にとって、子どものいる生活の良さというのは感じられるものでしょうか。私自身、「子どもがいなければもっと気軽にコンサートや美術館に出かけられるし、ゆっくりと本を読むこともできるのに」と感じることがあります。手放しに「子どもがいて幸せだ」とは言い切れないのが正直なところです。
 私にとっては、「いま子どもがいる」というのが、ただ一つの現実です。いるのといないのと、どちらが幸せかと比較して判断できることではありません。ただ、自分の血のつながった子どもかどうかに限らず、未来を生きる子どもたちから今のこの世の中を預かって生きているという感覚が、私自身の生きる道標になっていることは事実です。


7歳11か月/1歳11か月             (2018年5月)

 息子が小学二年生になってもう二カ月がたちました。クラスや通学団のメンバーも代わって、また新しい人間関係が開かれてきているようです。最初はちょっと怖い印象を持っていた上級生の子とも、今は随分と仲良くなったようで、いつも楽しくお話をしているそうです。最初の印象だけで拒絶せずに、誰とでも積極的にコミュニケーションを図ろうとする息子の姿勢は、見習わなくてはいけないといつも思わされます。
 ただ、親としてはついつい気になってしまうこともあります。小学生のうちならば、多少やんちゃな子がいても可愛いものですが、今後成長していくにつれて、やんちゃの度合いも増してきます。いわゆる反社会的なふるまいをする子たちと息子が仲良くしていたら、たとえ息子自身はそういう行為をしていなかったとしても、その交流については考え直して欲しいと思ってしまうことでしょう。どんな人とでもしっかりと向き合っていくことが大切なことだと思いつつも、自分の家族だけには厄介なことになる可能性のある人と関わりあって欲しくないという、身勝手な愛情を否定できない私です。
 親鸞聖人の伝えてくださった仏さまの教えには、私たちは自分一人だけが救われるということはあり得ない、あらゆる人が救われるものであってこそ自分も救われるのだと説かれます。私の親心が本当に息子の幸せを願うことになっているのか、狭い世界のかりそめの幸せを押し付けてはいないだろうか、いつも問い続けなくてはいけないことだと思われます。


7歳2か月/1歳2か月            (2017年8月)

 今年も八月がやってきました。今月はどうしても「戦争」のことを考えさせられます。特に、近頃は隣国との関係もきな臭くなってきていて、小さな子供でもそんな空気を感じ取っているのでしょうか、息子も、「ぼくは戦争になるのは嫌だ」と素直な思いを口にすることがあります。
 そこで、私自身が子供のころは戦争をどう感じていただろうかということがふと思い返されました。私の幼少期は、実際に戦争を体験された方たちから生々しいお話を聞かせていただいたり、「広島のピカ」や「はだしのゲン」といった原爆を扱った絵本や漫画を読んだりして戦争というものを感じ取ったものでした。そして、あのころ戦争に対して感じたのは、ただもう「恐い」ということばかりだったと思います。
 子供のころの自分は、いったい戦争の何を恐れていたのでしょうか。絵本や漫画、いろいろな方の話を聞いて湧き上がってきたのは、「こんなことになりたくない」という感情でした。理知的に戦争の残虐さや愚かさを実感した面もあったかとは思いますが、何よりも「自分は」こんな目に遭いたくないとい う気持ちが一番だったと思います。子供っぽい単純な感情かも知れませんが、ちかごろ、戦争に対する私たちの思いはこの一点に尽きるのではないかと感じさせられています。
 戦争をしたり戦力を持ったりするのに、私たちはいろいろな理屈をつけますが、本当は、誰もが「自分は」そんなことはしたくないのです。仏陀は、「己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」という言葉を残してくださっています。他人の気持ちになることはとてもできませんが、「もし自分だったら」という想像力は働かせることができるはずです。自分が嫌なことは素直に認めて他人にやらない。戦争といっても、この子供っぽい単純な気持ちが実は大切なのではと思 います。


7歳/1歳                   (2017年6月)

 先月は娘が一歳になりました。そして今月には息子が七歳になります。だんだん個性も際立ってきて、下の娘などは、息子には見られなかった自己主張の強さを感じさせます。どうしても一人目の子とは違って応対が後回しになりがちですので、主張できることは主張しなければと、幼いながらに感じているのかもしれません。
 一方、息子の方も小学生になって、親からすると生意気に感じられてしまう言動も増えてきました。下の子がどれだけぐずったり癇癪を起こしても、イライラすることはあっても腹が立つということはありませんが、上の子に対しては本気で腹を立ててしまうことが増えてきています。もちろん良いことではないのでしょうけれども、考えようによっては、下の娘に対してはまだ一人対一人という関係性が築けていないので腹も立たないが、息子とは同じ人間としてぶつかりあっているから腹が立つということもあるのでないかと思います。
 そういうなかで、人と人との関係は、「愛があるから」で片付いてしまうような甘いものではないのだと思い知らされています。お互いに良かれと思ってやっていることであっても、じっくりとその中身を見つめてみれば、エゴとエゴのぶつかり合いです。それは親としての私であっても例外ではありません。それでも、私たちはそういうつながりの中で生きさせてもらうことしかできません。どうしたって人間は一人では生きられないという現実を、親子関係を通して実感させられます。


6歳10か月/0歳10か月               (2017年4月)

 早いもので、今月から息子が小学生になりました。保育園では、他の人達と共に生活していくことを学ばせてもらいましたが、これからは、それに加えて「知識」を身につけていくことになります。問題に対して正しい答えを導き出す学びが始まるわけですが、世の中には必ずしも「正解」があるものばかりではないことも忘れないでくれればと願っています。
 さて、小学校では、来年度から「道徳」の授業が教科化されるということで、初の教科書検定が先日行われました。その検定をうけて、一年生のある教科書で、物語に登場する「パン屋」が「和菓子屋」に修正されています。これは、「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という点で不適切だと文科省から指摘されたためだそうです。「パン屋は日本らしくない」というレッテルが貼られたわけですが、この、「らしさ」を押し付けることが、これまで多くの悲しい差別を生み出してきたことを考えると、こういう教科書に学んでいく子供たちの未来に恐ろしさを感じてしまいます。
 そもそも、今回の道徳の教科化は、いじめ問題が発端になっていると聞きます。いじめというのは、「正解」を学べばなくなるような甘いものではありません。自分のしていることをいじめと気づき、いじめてしまう自分に罪を感じて向き合っていくしかないものだと思います。態度でもってそれを示すべき私たち大人が、こういう、いじめの要因を生み出すような検定を黙って見過ごしていてよいものか、考えさせられます。


6歳7か月/0歳7か月                 (2017年1月)

 そわそわと待ち構えていたお正月も、気づいてみれば数日が経ち、今ではもう普段と変わらない生活です。今年の元日、六歳の息子は、お爺ちゃんから大好きなレゴブロックをお年玉にもらって大満足の様子でした。それを見ていてふと思ったのですが、子供たちにとって、元日は、「お年玉をもらえる日」という意外に何か意味のある日として受け止められているのでしょうか。
 子供の通っている保育園で、年末に、「サンタさんに何をもらいたいですか?」という質問の答えを紙に書いて貼り出すことがあったそうです。今の世の中では、クリスマスにプレゼントをもらうのは当然のことだと考えられているようで、少し驚きを覚えました。確かに近ごろの子供たちは、お正月も、誕生日も、クリスマスも、その他の祝日にしても、「物をもらえる日」「どこかに連れて行ってもらえる日」、つまり「自分が何かをしてもらえる日」だと、当然のことのように考えているようです。しかし、言うまでもないことですが、クリスマスにしても、キリストの誕生を祝うキリスト教の行事です。ひとの誕生を祝う日を、自分がものをもらう日だと思っているというのは、やはり何かおかしな気がします。
 祝日といっても他と何か違いがあるわけではなく、一日は一日です。それを特別な日として定めることで、何気なくやり過ごしているこの一日が、本当はかけがえのない時間であったという、「あたりまえ」の有り難さが確かめなおされます。そこを見失っていくのは、あまりにもったいないことです。


6歳3か月/0歳3か月                  (2016年9月)

 この間誕生したと思っていた娘も、もう三か月を過ぎました。おかげさまですくすくと成長して、このごろは、徐々に彼女の個性もはっきりしてきたように感じます。上の子とは六年の違いがありますが、やはり昔のことも思い出されて、「喃語をしゃべるようになったのはこの子の方が早いな」とか「お兄ちゃんの時の方がおっぱいの飲みがよかったな」とか、いろいろと比較をすることも多いです。しかし、そうして比較することはあっても、不思議とどちらかの方がより可愛いということは思わないものです。
 考えてみると、常日ごろ私が比較をするようなときには、必ずそこに優劣や損得をつけて、思い上がったり落ち込んだりということばかりです。そんなことをしたところで苦しくなるだけだと理屈では分かっていても、どうしても物事を比較する目でしか見られない自分があります。そうしたことを思うと、この、比較をしながらも、そこに格差がつかない感覚というのは、とても新鮮に感じられ、こういう感じ方もあるのかと、目からうろこが落ちたような思いがしています。
 実際のところ、世の中には一つとして同じ存在はないのですから、どんなに人間の出来た人であっても、物事を比較して見てしまうのは避けられないことでないかと思います。そういう中にあって、比較はしてもそれに振り回されることのない世界があるのだということに気づかされることは、生きていくうえでとても大きなことなのだと感じています。


6歳/0歳                       (2016年6月)

 先月、第二子となる女の子が誕生しました。女の子だからなのか、それとも上の子のやかましさに気圧されているからなのか、理由はわかりませんが、長男のときよりも随分おとなしく感じられます。おかげで、今のところはゆったりと子育てを楽しませてもらっています。
 さて、この子が生まれたとき、体に赤い斑点のようなものが数か所見られたため、何が原因か詳しく検査していただきました。その結果、どうやらお腹の中にいるときに溶連菌という細菌に感染したあとらしいということでした。この細菌は、大人が感染しても気づかない程度のものですが、新生児の場合は髄膜炎などの深刻な事態を引き起こすこともあるそうで、そう聞くと心配になります。お医者さんがおっしゃるには、そこまでの症状は年に一人あるかないかということですので、宝くじに当たるような確率の話ではありますが、宝くじに当たるなら結構なことですが、子どもが発症したらかなわないというのが親としての正直な気持ちです。
 ところで、以前、宝くじの好きな方に、「そうそう当たらないのになぜ買うのですか」とおたずねるすると、「買わなければ当たらないからだ」と言われて、なるほどと思ったことがあります。考えてみると、宝くじを買った人だけが当たりはずれに一喜一憂できるのと同じことで、子どもの病気も、この命が生まれ出てくることがなければ心配することすらできなかったことです。あたりまえのことではありますが、改めてこの命の尊さというものを感じさせられています。


5歳11か月                      (2016年5月)

 今月、第二子が誕生する予定です。息子が生まれてから六年になりますので、子どもが生まれるときはどんなものであったか、もうあまり覚えて いないのですが、近頃、生まれてくる子にどんな名前を付けようかとあれこれ考えていて、ふと、六年前もこんなふうだったなと、とても懐かしく感じられました。
 長男の時もそうでしたが、子どもの名前にはどうしても「願い」を込めたくなります。そこで、改めて思い返してみますと、自分は子供に対してどんな「願い」を持っているのでしょうか。大きな病気にならないで、大きな事故にあわないで、争いごとに巻き込まれずに、楽しく生きていってほしい、というのが私の率直な気持ちです。今回の震災を見ていても、「この子だけはこんな目に遭って欲しくない」と願ってしまいます。人間は一人だけでは生きられないと理屈では分かっていても、自分の子供だけは災難に遭わない でほしいと願ってしまう、そんな浅い願いしか子供に向けられない私です。
 当然のことながら、世の中そんなに都合よくいくことばかりではありません。ですから、浅い願いは簡単に破られて、願った分だけ苦しみもひとしおです。そうしてみると、実は、そんな浅い願いは本当の願いとは言えないのだということを、親であるわたしに教えてくれているのが子なのかもしれません。「本当の願い」とは何なのか、そんなことを思いながら、ギリギリまで次の子の名前を考えていくつもりです。


5歳6か月                       (2015年12月)

 「女性の社会進出」という言葉が聞かれるようになって久しいのですが、私はいつもこの言葉を聞くたびに違和感を覚えます。ここで言われる「社会」というのは、お金を生み出す活動に関与しているかどうかということのようです。つまり、「経済社会」という、世の中の一つの側面に過ぎません。ところが、そこに参加していないと、まるで「人間社会」の一員とは認められないような風潮があるのは、何かおかしく感じられます。
 保育園を義務教育化して、母親が「社会」と接点を持つことを提唱されている方があるそうです。もちろん、子育てを女性だけの責任とするのは間違いですが、子育てに没頭することを、まるで社会に参加していないかのように見なす近頃の傾向もいびつなものに感じます。私たちだれもが必ず通ってきた人生の大切なひと時に関わるのが子育てです。それこそ、他には代えることのできない大切な社会参加ではないのでしょうか。
 子育て社会を女性だけに押し付けてきたことは改めるべきことですが、だからといって、それをプロに任せてしまうのは筋違いだと思います。お金によって結ばれた関係の中で人が育つのを本当に豊かな社会といえるのか考えさせられてしまいます。やはり、父親・母親が尊厳をもって子育てという社会を営めることこそが大切なのではと私は感じています。


5歳2か月                       (2015年8月)

 一年でも最も暑い時期を迎えています。ところが、息子を見ていると、この暑い中でもお構いなしに汗だくになって走り回っています。私などは、だれと顔を合わせても「今日も暑いですね」という言葉がまず口をついて出てきてしまいますし、さらには、いつのころからか、「暑いですね」という挨拶の後に「こう暑くてはかないませんね」という言葉が続くのが決まり文句になっています。
 元気に駆け回る子供たちを見ていると、彼らは暑くないのだろうかといぶかってしまいますが、よくよく思い返してみれば、自分も若いころは暑い中を平気で動いていた覚えがあります。その頃も決して暑くなかったわけではありませんが、暑いのは暑い、寒いのは寒いという、ただそれだけのことで、それがかなわない程でもなかったように思います。要するに、「暑くてかなわない」と言っていますが、暑いからかなわないのではないのです。自分の体が衰えてきているのを棚に上げて、暑いの寒いのと愚痴をこぼしている私がいるだけのことです。
 考えてみれば、こういうことを、天気に限らずあらゆるところでするようになってしまっている近頃の私です。人間関係でも、自分が不快な思いをするときにはその相手を「かなわないもの」として切り捨てて、「かなわない」と感じる自分の心を省みることはめったにありません。ところが、何が「かなわない」のかよくよく考えてみれば、自分の都合にそぐわないことに腹を立てているだけということがよくあります。ちょっとやそっとのことではめげないで、だれにでも屈託なく接して仲良くなっていく息子の姿を見ていると、たかだか自分の都合にそぐわないというだけのことで人とのつながりを断ち切ってしまうのは、なんとももったいないことに思えてきます


4歳10か月                      (2015年4月)

 今月から、息子が保育園の年中に上がります。昨年の入園からもう一年が経ったのかと思うと、時の流れの速さに驚かされます。この一年、家庭以外の社会の中で色々なことを学んでくる子どもの様子は、私の目には本当に頼もしく映りました。もちろん、良いことばかりを覚えてくるわけではありませんので、危ないことや他人に嫌な思いをさせることについては、一つ一つ言い聞かせる機会も増えてきています。
 そうした注意をしているとき、ふと気付いたことがあります。それは、息子はまだ一度も、「だって知らなかったんだもん」という言い訳をしたことがないということです。思い返してみると、この言い訳は私自身の子供の頃の常套句でした。人間はどれくらいからこの言い訳をするようになるのでしょう。少なくとも息子は、まだ「知らない」ことがたくさんあることを自覚していて、「知らないでやってしまったこと」でも、自分に責任があると感じているのだろうと思います。
 実は、私は今でも、口には出さないけれど心の中でこの言い訳をして、やってしまったことを反省するのを放棄していることがよくあります。確かに、「知らなかったのだからしようがない」というのは道理です。しかし、しようがなかったからといって、そこに罪がないわけではありません。知っていようが知っていまいが、自分のしたことは自分の責任です。知らなかったのなら、むしろ知らなかったことを恥じて悔やむべきであるはずなのに、子どもに比べて情けない限りの私です。


4歳8か月                      (2015年2月)

 携帯電話に、「鬼」から電話がかかってくるというサービスがあるのを御存知でしょうか。子どもが悪いことをした時のしつけのために始まったものだそうです。ここ何年か前から、「地獄」を描いた絵本も、しつけに効果的だということで人気が続いていますし、昔ながらの、「悪いことをしたら怖いことが起こる」という、恐怖感を植え付けることで社会性を養わせる手法が、今また流行っているようです。しかし、それが本当に「しつけ」なのか、それともただの「脅し」になってしまってはいないか、その判断が難しいところではあります。
 悪いことをすると嫌なことが自分に返ってくるというのを、仏教の「因果応報」の考えだと言われることがありますが、本来の因果応報はそういう意味ではありません。「こうしたら、ああなる」という未来を予測するものではなく、「今こうなっているのには必ず理由がある」という道理をいう言葉です。地獄というのも、「悪いことをするとそこに行く」というのではなく、「昔こういうことをした人たちが今ここにいる」ということを示すものです。つまり、私たちの生き方の酷さ醜さを、「地獄」という凄惨な世界で表わしているのです。
 自分たちの築いてきた社会の価値観を子供たちに伝えることは大切なことだと思います。しかし、それをどう受け取るかは子供たち自身です。私たちが、自分を省みることなく、地獄や鬼で恐怖感をあおって価値観を押し付ける手段としてきたのであったなら、考え直さなければいけないことです。


4歳3か月                      (2014年9月)

 近頃息子が恐竜に興味を持ち始めまして、先月、化石を見るために上野公園内の国立科学博物館に出かけました。都内の公園ではデング熱の感染が続いていましたので、どうしようか迷ったのですが、当時はまだ上野公園での感染は報告されていなかったので、思いきって出かけることにしました。幸い蚊には刺されずに済みましたが、帰宅した翌日、上野公園で感染した可能性がある人の記事が出て、冷やりとした気持ちになりました。
 こうした事態が起こったとき、どこまで用心すればよいのか、判断には難しいものがあります。いちいち危険を冒して今行かなくとも、寒くなって事態が収束してからで良いのではとも思ったのですが、息子にしてみれば、最も興味をかきたてられている「今」恐竜を見ることが、彼の人生にとって重要な意味があるのかもしれません。子どもの濃密な人生は、大人の打算的な考えでは測れないところがあるので、さらに判断が難しいです。
 三年前の原発事故の直後、中学三年生の子を持つ福島のお母さんが、最後の大会に向けて野球の練習をしたがる子どもの気持ちと、屋外で浴びる放射能が心配な自分の気持ちとの狭間で悩んでいるという話を耳にしました。元気で長生きしてほしい親の気持ち、人生のその瞬間を充実したい子の気持ち、どちらが正しいとも私には言えません。


4歳1か月                      (2014年7月)

 私事になりますが、この六月に息子が四歳になりました。もともと口数の多い子ではあったのですが、この頃では、私たち大人の会話にも口を挟むようになり、それが案外的を射たコメントであったりするので、こちらがドキリとさせられることがしばしばあります。
 先日、女子高生が同級生を殺害するという事件がありました。その記事を見て私たち夫婦が話をしていると、息子が何の話かと尋ねてきましたので、「女の子がお友達を殺してしまったんだよ」と説明しますと、彼は、「それは寂しかっただろうね」と言いました。その言葉を聞いて、私はハッとさせられました。こういう事件を耳にすると、私でしたら、「殺された子はかわいそうに」と同情したり、「殺しをした子の精神状態はどうだったのだろうか」と評論家じみたことを考えるくらいですが、彼は、人を殺さなくてはいけないようなことは「寂しいこと」だと言っているのです。言われてみれば当たり前のその事実を、私はずっと見失っていたようです。
 近頃の解釈改憲の問題にしても、私は実際に戦地に行く人の心を思って考えていただろうか、と思い返されます。自衛官の中には、国民のためならば命を投げ出すと言って下さる方もありますが、そのために敵対する国の人を殺さなくてはならない状況に追い込んでしまうのは、やはり「寂しい」思いを強いることになるのです。


3歳10か月                      (2014年4月)

 早いもので、今月からは息子が保育園に通うことになります。同年輩の子どもたちのなか、自分勝手の通用しない状況でどのようにやっていくのか、心配と共に楽しみでもあります。
 子供の成長と共に、私たち自身も同じ年ごろの子供を持つ親子と接する機会が増えてきました。まだ子供が小さかったうちはよかったのですが、自我がはっきりしてからは、子ども同士のぶつかり合いにも気を配らなくてはならなくなりました。私は、子ども同士のいざこざは、暴力を用いない限りはあまり介入しなくてもよかろうと思い、物の取り合いなどは、「譲ってあげたら」と軽く声をかける程度しかしていません。しかし、親御さんによっては、そういった場合でも我が子を強くたしなめる方もいて、後から、自分も強く叱った方がよかったのだろうかと考えさせられることがしばしばあります。
 子供を叱ることは本当に難しいです。そのうえ、子どもを叱る親は「ちゃんとしている」ように見えてしまうので、余計に厄介です。自分では叱るほどでないと思う場面でも、相手の親が叱っているのに自分の子に何もしないのは申し訳ないと思って叱ってしまうこともあります。他人の目を恐れて親の都合で叱っていては、当然、何が本当にいけないことなのか子供には伝わりません。親として、叱らない勇気をもつ大切さも感じています。


3歳8か月                      (2014年2月)

 親にならせてもらったことで、これまでとは違った角度から物事を考えさせられることが少なからずあります。先日、いわゆる「オレオレ詐欺」の被害のニュースを見ていて、初めて子を思う親の目線から事件のことが思われました。
 新聞やテレビでその手口を見ていると、確かに巧妙ではあるけれども、なぜそんなに簡単に引っ掛かってしまうのだろうかと思うこともありました。自分のことはさておいて、実際、もし身内が被害にあったとしたら、もちろん犯人に腹を立てることが一番でしょうが、表には出さなくとも、心の中では騙された家族にも少なからず苛立ちを覚えてしまっただろうと思います。どちらにしても、身近のものが被害にあったとき、まず最初に湧き上がる感情が「怒り」であったことは間違いないと思います。
 騙されたのですから、それは当り前と言えば当たり前のことなのかもしれません。しかし、この詐欺の特徴は、子を想う親の気持ちに付け込んだものであるということです。本当であれば、親の愛情の深さに感動する気持ちが先に起こってもよさそうなものです。もしそれが、親が自分のためにしてくれたことであるならば、なおさらのことです。ところが、損得のことが第一に浮かんできて、人を想う心の問題は後まわしになっているのが私でした。考えてみると、ずいぶん恥ずかしいことです。


3歳                         (2013年6月)

 先日の新聞で、フランスのパリ郊外で慈善活動をする子どもたちの記事を見かけました。そこに添えられていた、路上生活者に夕食を配る少年の写真に、私は思わず目を奪われました。なんとも生き生きとした、力強い瞳が印象的だったからです。「メルシー(ありがとう)を糧に成長」という見出しのつけられた記事でしたが、そこには、他人のために何かをし、感謝されることに充実感を感じている子どもたちの様子が書かれていました。それが、少年の瞳の力強さの秘密だったのかとうなずかされました。
 子どもに限らず私たちは、他人から必要とされている、役に立っていると感じることで、自分が認められたような気持ちになって、今の自分に落ち着くことができるものです。そして、それを一番実感するのが、人から「ありがとう」と言われた時だと思います。大人でさえそうなのですから、子供にしてみれば、大人から「ありがとう」という言葉をかけられるのは、どれほどの自信になることでしょう。
 以前、校長先生をしておられた方から、「今の子どもたちは、店で物を買った時だけが大人からありがとうを言われる時だ。これでは、お金が自分を肯定するものだと考えるようになってもしようがない」というお話を伺ったことがあります。私自身も、たどたどしい手つきで手伝いをしてくれようとする息子を、仕事が遅くなるからと邪見にしたことが思い当たります。子どものその気持ちに、「ありがとう」と言える心を失っていた自分が省みさせられています。


2歳5か月                       (2012年11月)

 来月には息子が二歳半になります。だんだんと我が強くなってきまして、自分の欲しいもの、やりたい事を強く主張するようになりました。「イヤイヤ期」というのでしょうか、着替え一つするのにも、服を脱ぎたがらなくて大騒動、やっと裸になったと思ったら、今度は服を着たがらなくて大騒ぎと、悪戦苦闘の毎日です。
 大人からしてみると、やらなくてはいけないことをさっさと済ませてしまえば、後でずっとたくさん遊ぶ時間が取れるのにと思うのですが、当人は「今」やりたいことしか頭にありませんから、それを邪魔されたということで、全身で抗議の行動をしているわけです。用事がなかなか進まないために、ついイライラしてしまうこともあるのですが、大人の時間感覚で非効率と思うことも、子供は、今この一瞬、一番したい事をして過ごそうとしているのであって、こちらの一方的な価値観だけで怒ってばかりもいられないなと考えさせられます。
 大人になると、人間というのは誰でも、今この時に死んだとしても何らおかしくない存在なのだと頭では理解しているのですが、実際には、効率を考え、先のことばかりを予定して生きています。自分は、今この一瞬を本当に大切なものと受け止めて生きているのか、子供から問いかけられているようにも感じます。


2歳                          (2012年6月)

 今月で息子が二歳になります。目が離せない時期なのですが、ものすごい運動量で後をついていくだけでも大変です。思い返してみますと、ちょうど一年前のこの頃はようやく歩けるようになったところで、障子の敷居などの段差にもそのまま突っ込んで行ってつまずいたりしていました。ところがふと気づいてみると、いつの間にか、そういった段差に来るとスピードを落としたり、どこかにつかまったりして、スムーズに乗り越えるようになっていました。もちろんまだ小さな体ではひとまたぎで乗り越えられないような段差もたくさんありますが、自分では乗り越えられないことを自覚して、そのまま突き進んで行くようなことはありません。成長するということは、何かができるようになるというばかりでなく、自分に出来ないことが分かるようになるということもあるのだなと教えられました。
 この「出来ないことが分かる」ということは、大人になればなるほど難しいようです。今の私自身もやはり、その気になれば何でも出来るはずだ、出来ないのは努力が足りないだけなのだとどこかで思いこんでいます。その思いが、震災で大変な現実を目の当たりにしながらも、今なお原発は制御できる、災害は想定できるという幻想から私たち自身を逃れられなくしているのでないでしょうか。今こそ私たちがみな「出来ないことが分かる」という成長を求められているのではないかと思われます。


1歳6か月                       (2011年12月)

 気がつけば暖房の恋しくなる季節が迫ってきました。この夏は原発事故の影響で節電に努めなくてはいけませんでしたが、冬場の電力事情も今から心配されます。先日、大手自動車メーカーの労働組合が、今夏の節電のために行われた「土日操業」が今後も行われるようだと、子供との時間が削られたり、地域行事に重なったりして大変だという組合員の声を伝えていました。
 私はまだ子供が小さいので意識していませんでしたが、学校に通うような歳になると、土日が休みでないというのは子供との間で色々と苦労があるもののようです。私自身も僧侶をしていますと、近頃はほとんどの方が土日に法事をされますので、なかなか土日に休みは取れません。それを思うとこの話題も他人事でなく、先々子供との関係を考えていかなくてはと思わされています。
 さて、近年では、二十四時間年中無休でサービスを受けられるものが世の中に溢れていますので、自分の都合に合わせて周りの用意が整っているのが当たり前の感覚になっています。逆に、自分が欲しい時、やりたい時にその施設が開いていないと腹立ちさえ覚える始末です。しかし、自分に都合の良いその日、その時、そこで働いておられる一人一人の方々は、それぞれに子供や地域との関係に苦労されながら今私のためにして下さっているのです。そんな当たり前のことを見失っていた自分を恥ずかしく感じます。


1歳3か月                        (2011年9月)

 息子も日一日と出来ることが増えてきています。先月のお寺での永代経の折にも、大人のすることを真剣な眼差しで眺めていたということを、お参り下さった方から教えて頂きました。日常においても、私のしたことを知らぬ間に覚えていて真似をすることがあり、子供はこうして一つ一つ出来ることが増えていくのだなと実感しております。その一方、子供のした何気ない行為から、気づかぬ間に自分がそんなことをしていたのだと知らされて、ドキッとすることもあります。「子は親の鏡」とはよく言ったものだと、心から思わされる毎日です。
 さて、子供相手ですと素直にそういう風に受け止められるのですが、これが大人同士の事となるとなかなかそうはいきません。相手が自分に冷たい態度を取る時には、自分は良かれと思っていても、実は相手にとっては不快なことをしていたのだということはよくあることです。相手のためを思って勧めたことが、有難迷惑であることもよくあります。そんな時、自分の行為が相手にそう映っているのだとは考えずに、こちらの好意を素直に受け取らない相手の態度に腹を立ててしまいがちです。しかし、よくよく考えてみれば「子は親の鏡」なのと同じように、人と人との関わりは、常に「相手は自分の鏡」であるのです。そんなことまで見失って生活している私自身を思い知らされています。


1歳                          (2011年6月)

 息子が一歳の誕生日を迎えました。日に日に成長する様に驚かされるばかりの毎日です。日頃は皆さんから可愛がっていただき、寺の行事の時なども楽しんで過ごしているようです。
 さて、子供が生まれるまでは正直なところあまり考えたことがなかったのですが、近頃は、「子供たちのために良い世の中を残したい」という気持ちが良く分かるようになりました。同時に、私の前に生きていって下さった方々も、こういう思いでこの世の中を残してきてくださったのだなということが実感される毎日です。親鸞聖人は自らの著作の中で、「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す」という、中国のお坊さんの言葉を引用されております。これは仏教の教えがいつまでも受け継がれて途切れることのないことを願われた言葉です。その仏教の思想の根本には、あらゆるものは本来あるべきままにあるべきであって、それを乱しているのこそ私たちなのだという教えがあります。今、この教えが強く心に響いてきています。
 この度の福島の原発事故に直面して、本来あるべき自然の姿を汚して、あるべきものをあるべき姿のままに次の世代に伝えていく事が出来ないでいる自分自身の有り様が痛感され、子供たちに恥ずかしい思いでいっぱいです。


0歳5か月                       (2010年11月)

 今月初旬で息子は五ヶ月になりました。首も座って動きがダイナミックになってきたり、泣き声が力強くなってきたりと、日に日に成長していく姿に驚かされています。そんな子供の姿を見る一方で、先日顔を合わさせてもらったばかりの方が人生を終えられてお葬式を勤めさせてもらったりと、そういう生活を私は送っています。とても対照的に感じる事でありながら、どちらもが人間として通る当たり前の道なのだと思うと、不思議な思いがします。
 同じ人生の中の一行程でありながら、生まれ育っていく事と、老い亡くなっていく事とに対する私の感覚が随分と違ったものであるのは、生は喜びで死は悲しみだという事を、何の疑いも無く信じ込んで、本当にそうだろうかと問い返す事がなかったからのようです。しかし考えてみれば、本当に死が悲しいだけの事であるならば、出産の挨拶に「いずれ亡くなられる命が生まれて、お寂しいことです」とお悔やみを述べてもいいはずでが、そうは言いません。生死が一体であることを私たちはどこかで感じているから、あえてそこから目をそらしているのでしょうか。
 もちろん生きていることは素晴らしいことです。しかし、近頃の私達は、死を嫌うあまり「死なないために生きている」という事になってしまってはいないでしょうか。なぜ生きたいと思うのか、生きている事の何が喜びなのか、という事が抜け落ちているのは虚しいことです。生老病死という、人間として当たり前の事実を丸ごと受け止めること無しには、本当の生きることの喜びは感じられないということを改めて教えられています。


0歳3か月                        (2010年9月)

 ご門徒さんのお宅にお参りさせていただいた折に子供のことをお話しさせてもらっていますと、男の子だったという事もありまして、よく「後継ぎができて、もう安心だね」という言葉をかけられることがあります。お寺の後継者という意味か、一族の相続人という意味かは分かりませんが、私自身としましては、一人の命が誕生したという喜び以外には何も考えられずにおりましたので、こういう声をかけて頂くと何とお応えして良いか困惑してしまっているというのが正直な気持ちです。
 この言葉をお寺の後継者という意味で受け取ってみると、確かに、私自身が最も大切なことだと思って携わっている道を子供も歩んでくれるのなら、親としてはとても嬉しいことです。ただ、浄土真宗の寺院がこれまで主に世襲制で受け継がれてきたからといって、当人にとって本当に大切なことだと感じられないものであるならば、それでお寺をすることは自他ともに不健全な状態だと思います。本当に教えを大切に思い、共に学んでいきたいという思いを持った人がお寺をやっていくべきものだと私は思います。
 今後息子がどのような道を歩いて行くのかは分かりませんが、お寺に興味を感じるかどうかというのは、私自身の僧侶としての在り方や、私と皆さんとの関係がどのように彼の眼に映るかということなのだろうと思います。子は親の鏡といいますが、彼の成長が私自身の人生を問い直していくことになるのだろうと感じているこのごろです。


0歳1か月                        (2010年7月)

 息子が誕生しまして一ヶ月半ほどになります。バタバタしながらも、充実した子育てをさせて頂いております。このひと月、彼はよく鼻水を詰まらせまして、最初は風邪でもひいたのかと心配して慌てて小児科に連れて行ったりもしたのですが、どうやら問題無いようで、鼻が弱いのは父親譲りの体質のようです。何しろ初めての子育てで神経質になってしまう面もありまして、色々と些細な事が気になります。彼の鼻詰まりの時も、私は多くの方々と日々対面してお話しさせてもらう生活をしていますので、自分がどこかで悪い風邪をもらって来たのではないかと気になったりもしました。
 改めて思い返してみますと、こういった思いは子供のことだけでもありません。毎月お参りさせてもらっているお宅のお年寄りが体調を崩されたと聞くと、先日のお参りの時に自分が風邪気味だったけれど、うつしてしまったのではなかろうかと気に掛かったりします。どうも私にはそういう神経質なところがあるようです。もちろん用心するのは大切なことですが、風邪をうつしうつされるのも、人間同士が関わり合いながら生きている中では、ある程度避けられない、当たり前のことと言えるのかもしれません。風邪はひかなくとも無菌室の中で孤独に暮らすのと、風邪をひいてでもたくさんの人と関わり合いながら生きられるのと、息子にどんな人生を歩んでもらいたいだろうと考えた時、自分自身の価値観が問い直される思いが致します。


親になりました                     (2010年6月)

 このたび息子が誕生いたしました。名前は「慶喜(よしのぶ)」と言います。正信偈の中にも二回ほど登場するとても大切な言葉です。これは、信心を頂いたこの上ない喜びを表現したものです。これからの人生、私達と共に、本当の生きる喜びとは何なのかをたずねていく仲間となって欲しいという願いを込めた名前です。
 さて、そこで考えさせられるのが、本当の生きる喜びとはどんなものかということです。お金や権力も、あるに越したことはありません。頭脳や運動能力が優れているのにも憧れます。健康こそが一番だといわれる方もおられます。実際、私自身もこの子が生まれる前には、よく言われるように「元気でありさえすればそれでいい」「五体満足であればそれ以上は望まない」といった気持ちでおりました。けれども、息子の誕生に立ち会わせてもらって、命が一つ生まれ出てくるということに思いの他感動させられると、そんな事を考えていた自分が恥ずかしく思えてきました。
 自分自身では謙虚な事でも言っているつもりで「元気でさえあれば…」などと思っていましたが、よくよく考えてみれば、とんでもない親の欲にまみれた願いでした。命が一つ生まれ出て生きている、それ以上の喜びがどこにあるのかと教えられた思いです。もちろん、より良く生きたい、思い通り生きたいという気持ちは常にありますが、それは本当にこれ以上ない喜びと言えるのか、自分自身に問い直さなければと、教えられています。

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