真宗の言葉


 現在では馴染みの薄い言葉ですが、古くからよく使われてきた言葉です。字を見れば明らかなように、「生きた後」のことですから、死後のことを表わしています。
 私たちが死後を思うとき、どうしても二つの極端な考えに陥りがちです。一つは、死んでからも自分でいられる異次元の別世界を想像して、そこでよい暮らしができるように今から準備をしておこうという考え、もう一つは、死んだらおしまいだから、世間的に良いとされることであろうとなかろうと、とにかく生きているうちに自分のやりたいことをやらなければ損だという考えです。どちらも死んでからの自分を予想したうえでの振る舞いです。
 けれども、「後生」というのは「死んでから」のことではなく、「生き尽くした後」を意味する言葉です。自分が自分の人生を生き尽くすにはどう生きるのか、その道標が「後生」です。それは「死」という想像も及ばないものを想像して混乱している私たちが、ただそのままありのまま、あたりまえに生きてあたりまえに死んでいく自分を受け止める心をいただくことです。


 普通、相続といってイメージするのは財産相続でしょうか。土地とかお金とか、自分の持っているものの一部を他人に譲り渡すこととして使われている言葉です。それに対して、仏教で相続されるのは「教え」です。教えというものは、自分から相手へ、又は相手から自分へと、一方的に受け渡されてそれでお終いという訳にはいかないところが財産相続とは違っています。
 本当に大切なものは、自分が手放して人に預けてしまうというのでなく、自分も相手も一緒にそれを共有していかなければなりません。そうでなければ、伝える方は伝え終わったところで空っぽになってしまって元も子もありません。仏教で相続というのは教えを共有していく仲間になることをいう言葉です。一方通行に何か秘伝の技法が伝えられるようなものではなく、相続されることでどちらもがお互いに教え教えられる関係になっていくのです。


 仏教では自然を「じねん」と読みます。そのまま、ありのまま、という意味です。こう言うと普段私達が使っている自然という言葉と同じように聞こえますが、それとは若干ニュアンスが違っているようです。私達は通常、自然を人間の関わる物事と対比して考えます。ですから、他者が自分の感覚にそぐわない場合には、それを不自然という言葉で片付けようとします。けれども実際には、それがそうであることは否定しようのない事実としてあるのですから、それを不自然だと決め付ける自分の心の方が自然である事に反している訳です。
 自分と対比して自然ということが言えるのではなく、どこまでいっても自分自身が自然である事の一要素として存在している、そういった事実を表現しているのが自然(じねん)という言葉です。


 浄土真宗では仏様の前で「南無阿弥陀仏」ととなえます。その言葉の意味は、「南無」と「阿弥陀仏」に分けて確かめられます。「南無」とは「頼りにする」という事です。「阿弥陀仏」は本堂や仏壇の中心に人型のものとして据えられていますが、もちろんそういうものが実在するのではなく、あの形はものの例えです。何を例えているのかと言うと、「南無」が「頼りにする」という事なので、「阿弥陀仏」は「頼りになるもの」という事になります。本当に頼りになるものがあれば私達は安心して生きていけます。では「安心できるもの」とは何でしょう。困った時に役立つ秘法でしょうか。そういうものがあれば心強いのですが、本当にそれが役立つかはいざとなってみないと分かりません。悲しいかな私達は、そういうものにはどこか疑いが残ってしまって心底からは落ち着けません。
 あるCMで、犬に吠えられる子供に「鎖がついているから大丈夫」と言えば確かに安全であることは伝わるが、「ママが一緒よ」と言うと、そこには安心が加わるという内容のものがありました。安心というのはいざという時の特効薬があることではなく、いつもそこにあるのだという信頼感から生まれてくるものです。良い時も悪い時も、今まさに自分が自分だけの人生を生きさせてもらっているんだと感じさせられる、日々の一つ一つの出来事があります。それをごまかさずに受け止めていく事が、「南無阿弥陀仏」と表わされる安心した生き方です。


 平等というのは、一言で言えばわけへだてないことです。あたりまえのことのようですが、案外この感覚を理解するのは難しいものです。私達の考える平等とは、抜きん出た者は頭を押さえ、遅れた者は引っ張り上げて、横一線の状態を作ろうとするものです。その平等であるラインを決めるのはどこまでも自分達の主観ですから、現実にはそこから溢れる者が出てくるのが当然で、私達の考える平等はどうやっても実現しないことになります。
 お経では平等な世の中を、「青い花は青い光を放ち、黄色の花は黄色い光、赤い花は赤い光、白い花は白い光を放つ」ところだと譬えています。何年か前に某アイドルグループが歌った曲に似たような歌詞がありましたが、二千年以上前のインドでも同じような事が言われていたのです。全てを同じ状態にすることが平等なのではなく、それぞれがそれぞれのありのままでもって精一杯生きていけることが本物の平等だということです。たとえ善意であってもそれを邪魔することになるならば、それは平等であることを妨げていることになるのです。なかなか実感しづらいことなのですが、平等というのは私達が作り出していく状態のことを言うのではなく、平等であること自体が私達本来の姿なのだということです。


 ドラマや漫画では、お父さんがお風呂に浸かって「極楽、極楽」とつぶやくシーンをよく見ます。字を見てみると「楽しみの極み」というのですから、お風呂程度で楽しみが極まるのなら安いものです。ところがそのお風呂でさえ、ある人にとっては快適な温度が、ある人にとっては釜茹で地獄のようなものだったりするのです。本当に楽しみを極めているものならば不快に思う人が出るのはおかしいです。この程度の快楽ですら極め尽くすのは難しい事なのですから、あらゆる者にとって全てが快適である状態などというのは、到底考えられません。
 それでは極楽とはどういうことを言うのでしょうか。実際、楽しみが極まったと言うためには、こちらの欲求に応じて世の中が変わるのではなく、世の中のあらゆる物事が自分にとって楽しみであると感じられる状態になるしかないんじゃないかと思います。といっても、精神が昂って何でもかんでも楽しく感じるというような酩酊状態になる訳ではありません。一時のマボロシを見ていても、酔いはいずれ醒めるものです。「極まった楽しみ」というのは単なるその場しのぎの快適さではなく、良い事も悪い事もひっくるめて自分の人生を目一杯生きていける心持をいただいた時、初めて生まれる感覚なのでしょう。それこそを「極楽」とよぶのです。


 業という言葉は、一昔前までは非常にネガティブな意味でもってよく使われてきました。「業が深い」と言ったりして、現在に都合の悪い事、ままならない事が起こった時、その原因を以前に犯した罪のせいだとしてきたりしました。それが高じて「前世の業」などといった投げ遣りな考え方まで起こってきました。オウム事件で殺人を犯した信者達の多くも、世間の人達をこの「業」から解放するためだと信じ込んでいたということです。
 業というのは「なしわざ」と読まれます。といっても、「私がこうしたからそうなる」という一般的な因果関係を言うのではありません。例えば、私達が原因だと思っている「私がこうした」ということの、その「私が行動を起こせる」ということの土台になっている事実、それを「業」という言葉で表すのです。ここで言うと、それは私が今ここにこうして存在するという、その現実そのもののことです。そういう、個人的な因果関係を超えた、私達の根っ子にある一つの真実に気づかさせてもらう言葉が「業」なのです。


 善い事・悪い事というのは、とても単純なことのように思えます。ところが、ちょっと考えて見るとこれほど分らなくなってしまうものもありません。例えば、私達は環境汚染は悪い事に違いないと思っています。けれども実際には、汚水にしか生きられないバクテリアなどもいます。これもまたひとつの生命には違いありません。私達は生命を大切にする事も善い事だと思っています。こうなると生命か環境か、どちらを優先するのが善い事かは個人的な判断に委ねられてしまいます。
 こうしてみると、何が本当に善い事で、何が本当に悪い事なのか私達には知りようもありません。ただひとつ言えることは、私達は生きていく中で、必ず自分の善悪感に疑問を投げかけてくるものに出会います。それを無視して頑なに自分の判断を主張していっても物事がうまくいった例は無いということです。私達のいう善悪というのは絶対のものではありません。むしろ自分の作り出した二者択一の判断基準を省みさせられるきっかけになるのが、私達の持つ善悪という感覚なのです。


 徳の高い人、低い人ということを言います。人柄の善し悪しや知識の深さを表わすのによく使われますが、徳というのは本来、そういう人間の成熟度を測る物差しの事とはちょっと違います。
 ひとことで言うと、徳とは「伝える力」です。どんなに自分が正しい、立派なことをやっていると思っていても、それが他人に伝わっていかなければ、単なる独りよがりになってしまいます。徳というのは、それが自己満足に過ぎないのか、それとも本当に大切なものなのかを見極める目印になるものなのです。


 法という字を見ると憲法や法律のことが思い浮かびますが、仏教で言う「法」とは、そういう私達の作り出した守るべきルールとはちょっと違ったものです。学問的に解説すると随分ややこしいのですが、簡単に言ってしまえば、「決して変わることの無い、ものの道理」のことを表す言葉です。つまり、今も昔も変わらない「あたりまえの事」という意味になります。
 そもそも、法という漢字の成り立ち自体が「公平な水準」という意味から出来ているものなのだそうですから、偉い人が私達に守らせる規則のことのように「法」という字が使われている今の状態は、本来の意味とはどこか食い違っているようです。たとえ一般生活の中で使われる憲法や法律といった言葉であっても、「法」と名のつく以上、その言葉の持つ本当の意味は、私達一つ一つの命はどんな立場においても必ず自由であり平等であるといったような「あたりまえの事」をお互いに損なうことのないように、私達が私達自身のために尊重しあう取り決めのことであるはずです。


 近頃ではあまり聞かれなくなりましたが、一昔前には「お浄土」というと理想郷を表す言葉としてよく使われました。死んだら悩みも苦しみもない、そういう世界に行きたいと願ったのです。ものの本には「浄土」として、衣食に事欠かず、よい香りや音楽のする、今で言う癒しの空間のようなものが記されています。けれども、その世界に女性は存在しません。どんなに心落ち着く空間とはいえ、異性もおらず、心躍らせる刺激も無いというのでは、どこか寂しい気がします。
 本当は、浄土というのは私達が想像するような理想の世界の事ではありません。名前が示す通りの浄められた世界の事です。といっても、それは他でもない、今のこの世界のありのままの姿を言うのです。この世界が汚れて見えるのは、貪欲に自分本位の理想を求め続ける私達自身の曇り眼のせいです。「青い鳥」という、幸せを求めて旅に出た兄妹が、結局最後には帰り着いた我が家に幸せを見つけるという童話があります。そんなふうに、自分が今いるこの世界の有難さに改めて気づかされる事が、浄土という言葉に込められた思いなのです。


 念仏というのは、一言で言えば「ナムアミダブツ」ととなえることです。といっても、ただ闇雲にとなえたところで幽霊が追い払えるわけではないですし、ましてや願い事がかなうなんてことはありえません。
 「馬の耳に念仏」という言葉があります。昔の人はウマいことを言ったもので、ただ「ナムアミダブツ」のフレーズが耳に入ってくるというだけでは念仏の念仏たるゆえんがありません。念仏は、口に出した言葉が再び自分の耳に入ってくるのをきっかけに、いつも聞いている仏教の教えがじっくりと噛み締められるという働きをしているものなのです。

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