真宗の言葉
現在では馴染みの薄い言葉ですが、古くからよく使われてきた言葉です。字を見れば明らかなように、「生きた後」のことですから、死後のことを表わしています。 |
普通、相続といってイメージするのは財産相続でしょうか。土地とかお金とか、自分の持っているものの一部を他人に譲り渡すこととして使われている言葉です。それに対して、仏教で相続されるのは「教え」です。教えというものは、自分から相手へ、又は相手から自分へと、一方的に受け渡されてそれでお終いという訳にはいかないところが財産相続とは違っています。 |
仏教では自然を「じねん」と読みます。そのまま、ありのまま、という意味です。こう言うと普段私達が使っている自然という言葉と同じように聞こえますが、それとは若干ニュアンスが違っているようです。私達は通常、自然を人間の関わる物事と対比して考えます。ですから、他者が自分の感覚にそぐわない場合には、それを不自然という言葉で片付けようとします。けれども実際には、それがそうであることは否定しようのない事実としてあるのですから、それを不自然だと決め付ける自分の心の方が自然である事に反している訳です。 |
浄土真宗では仏様の前で「南無阿弥陀仏」ととなえます。その言葉の意味は、「南無」と「阿弥陀仏」に分けて確かめられます。「南無」とは「頼りにする」という事です。「阿弥陀仏」は本堂や仏壇の中心に人型のものとして据えられていますが、もちろんそういうものが実在するのではなく、あの形はものの例えです。何を例えているのかと言うと、「南無」が「頼りにする」という事なので、「阿弥陀仏」は「頼りになるもの」という事になります。本当に頼りになるものがあれば私達は安心して生きていけます。では「安心できるもの」とは何でしょう。困った時に役立つ秘法でしょうか。そういうものがあれば心強いのですが、本当にそれが役立つかはいざとなってみないと分かりません。悲しいかな私達は、そういうものにはどこか疑いが残ってしまって心底からは落ち着けません。 |
平等というのは、一言で言えばわけへだてないことです。あたりまえのことのようですが、案外この感覚を理解するのは難しいものです。私達の考える平等とは、抜きん出た者は頭を押さえ、遅れた者は引っ張り上げて、横一線の状態を作ろうとするものです。その平等であるラインを決めるのはどこまでも自分達の主観ですから、現実にはそこから溢れる者が出てくるのが当然で、私達の考える平等はどうやっても実現しないことになります。 |
ドラマや漫画では、お父さんがお風呂に浸かって「極楽、極楽」とつぶやくシーンをよく見ます。字を見てみると「楽しみの極み」というのですから、お風呂程度で楽しみが極まるのなら安いものです。ところがそのお風呂でさえ、ある人にとっては快適な温度が、ある人にとっては釜茹で地獄のようなものだったりするのです。本当に楽しみを極めているものならば不快に思う人が出るのはおかしいです。この程度の快楽ですら極め尽くすのは難しい事なのですから、あらゆる者にとって全てが快適である状態などというのは、到底考えられません。 |
業という言葉は、一昔前までは非常にネガティブな意味でもってよく使われてきました。「業が深い」と言ったりして、現在に都合の悪い事、ままならない事が起こった時、その原因を以前に犯した罪のせいだとしてきたりしました。それが高じて「前世の業」などといった投げ遣りな考え方まで起こってきました。オウム事件で殺人を犯した信者達の多くも、世間の人達をこの「業」から解放するためだと信じ込んでいたということです。 |
善い事・悪い事というのは、とても単純なことのように思えます。ところが、ちょっと考えて見るとこれほど分らなくなってしまうものもありません。例えば、私達は環境汚染は悪い事に違いないと思っています。けれども実際には、汚水にしか生きられないバクテリアなどもいます。これもまたひとつの生命には違いありません。私達は生命を大切にする事も善い事だと思っています。こうなると生命か環境か、どちらを優先するのが善い事かは個人的な判断に委ねられてしまいます。 |
徳の高い人、低い人ということを言います。人柄の善し悪しや知識の深さを表わすのによく使われますが、徳というのは本来、そういう人間の成熟度を測る物差しの事とはちょっと違います。 |
法という字を見ると憲法や法律のことが思い浮かびますが、仏教で言う「法」とは、そういう私達の作り出した守るべきルールとはちょっと違ったものです。学問的に解説すると随分ややこしいのですが、簡単に言ってしまえば、「決して変わることの無い、ものの道理」のことを表す言葉です。つまり、今も昔も変わらない「あたりまえの事」という意味になります。 |
近頃ではあまり聞かれなくなりましたが、一昔前には「お浄土」というと理想郷を表す言葉としてよく使われました。死んだら悩みも苦しみもない、そういう世界に行きたいと願ったのです。ものの本には「浄土」として、衣食に事欠かず、よい香りや音楽のする、今で言う癒しの空間のようなものが記されています。けれども、その世界に女性は存在しません。どんなに心落ち着く空間とはいえ、異性もおらず、心躍らせる刺激も無いというのでは、どこか寂しい気がします。 |
念仏というのは、一言で言えば「ナムアミダブツ」ととなえることです。といっても、ただ闇雲にとなえたところで幽霊が追い払えるわけではないですし、ましてや願い事がかなうなんてことはありえません。 |