日々雑感


セミの一生                    (2019年8月)

 長かった梅雨が明けたと思ったら、大変な暑さの日々が続いています。当寺の境内でもセミたちが一斉に鳴き始め、暑さに拍車をかけております。そのセミについて、先日面白いニュースを目にしました。これまで、セミが土から出てきて成虫になってからの寿命はたった一週間という儚いものだと聞いてきたのですが、岡山の高校生がセミの成虫の寿命について研究したところ、実は案外と長生きをするものらしく、長命な種類のものは一か月以上も生きていることが分かったそうです。
 紀元前の中国の『荘子』には「惠蛄は春秋を知らず(セミは春や秋を知らない)」という有名な言葉があります。後世の曇鸞というお坊さんは、これに続けて「伊虫あに朱陽の節を知らんや(春秋を知らないものは、今が夏であるということも分からない)」と言われ、「世の中の真実を知ることがなければ、今の自分自身の在りかたさえもはっきりしない」というたとえとされました。しかしこの研究によれば、実際には、夏を生きるセミも、命尽きる間際には秋の気配を感じ、「季節」があるということを予感しながら死んでいくのかもしれないということなのです。
 私たちは、実際に見たものや理屈として理解できるものしか信じない頑なさがあります。けれども、当然のことながら、自分の経験や知識で測れるものだけがこの世界ではありません。現状に妥協して、深く物事に向き合おうとしない傾向の強い昨今の私たちには、秋を感じるセミのような、「本当のこと」を体で感じ取る感受性と想像力こそが願われているのではないかと思われてきます。


熊本地震                     (2019年6月)

 先日、お寺仲間と共に熊本へ一泊研修旅行に出かけ、熊本地震で被災されたお寺の方やご門徒の方にお話を伺ってまいりました。地震からすでに三年が経ち、遠く離れたこちらではほとんど報道されることもなくなったため、もう復興が済んでいるかのように錯覚をしていましたが、実際に現地を訪れてみると、いまだに「震災」が続いている現状を目の当たりにさせられ、自分の想像力の乏しさを思い知らされました。
 もちろん道路や建物の再建にもまだまだ時間を要するのですが、何よりも、震災によってこれまで共に暮らしていた人々の分断が起こってきたことが大きな問題となっているということをお聞かせいただきました。新しい家は建っても、全く新しい土地で、これまでのご近所の仲間とはバラバラになってしまったという「物理的な分断」も起こっていますし、少し時間が経過したことによって、被災者と支援者、あるいは被災者同士の、「心の分断」も深刻になってきているそうです。
 実際に被害にあわれた方が、被害にあっていない方に対して、「あなたは悲しい目に遇っていないから…」と心を閉ざしてしまったり、被災者が支援者に対して、「いつまで『すいません』と頭を下げ続けなければいけないのか…」と、好意を受け取ることで自分を卑下し続けることに疲れてしまったり、これほど困難な状況にあってさえ、私たちは自ら上下・格差を生み出し、そこに一喜一憂してしまうのです。ただただ「有り難う」と頭を下げることが、私達にとってどんなに難しいことかと教えられます。


布施                       (2019年4月)

 先日のパリのノートルダム寺院の火災は衝撃的でしたが、その再建への寄付が一晩で一千億円以上も寄せられたことにも驚かされました。そのことを巡ってフランスでは、厳しい生活に苦しむ国民から、「美しい大聖堂があるだけでなく、ひどい住宅や路上生活などがない町こそ、素晴らしい都市だ」と世間に訴える声も上がっているそうで、うなずかされるものがあります。
 今回の寄付額の大部分は大企業によるものだそうですが、企業にしてみれば寄付を表明することでの宣伝効果は絶大でしょうし、観光資源ということを考えると、再建支援は「投資」の意味合いも強いでしょう。単に心の問題だけではなく、経済事情が深く関わってのこの寄付額だということですから、「それだけの額が出せるのなら社会的弱者を救ってくれ」という市民の訴えは、なかなか企業とはかみ合わないことだろうと思います。
「費用対効果」ということを言いますが、使った金額に対してどれだけの経済的見返りが見込めるかを私たちは気にします。それを宗教にも求めることもありますが、よほどの有名寺院でない限り経済効果は望めません。考えてみれば、当寺のような一般寺院というのは、経済的見返りの期待できない中で、それでもご先祖様たちが大切に伝え残してきてくださった施設なのです。そうした先人たちの思いは如何なるものであったのか、その心を受けとめ伝えていく責任を、いま感じています。


肌の色                      (2019年2月)

 先月の全豪オープンテニスで優勝した大坂なおみ選手をモデルとした即席ラーメンのアニメCMが、実際よりも肌の色を白く描いているという批判を受けて公開中止となりました。人種差別に関わる歴史的な背景もあり、肌の色というものに強い意識を持つ方もありますから、大坂選手本人もコメントされているように、このことを問題にされる方々がおられることもよくわかります。
 一方で、日本の漫画文化に親しんできた私にしてみると、これはごく一般的な漫画の表現で、特に違和感を感じることはありませんでした。日本人や外国人ということに関わらず、手足が長く、目がくりくりと大きく、場合によっては瞳の中に星があり、いわゆる「肌色」の皮膚をした人物が描かれるのが日本の漫画です。とてもこんな人種が実在するとは思えませんから、その「漫画」で描かれた大坂選手の肌が実際の色より白いからといって、それが白色人種の優位性を表すのではないかという指摘は、思いもよらないものでした。
 とはいえ、こうした独特な漫画文化をおおらかに受け入れることが難しくなるほど、特定の人種に対する激しい差別を積み重ねてきたのが、私たち人間の歴史なのです。肌の色にこだわらず、一人一人を唯一で特別な存在だと認め合い、漫画は漫画として気楽に見られる世の中が願われます。


食べていくためには仕方がない           (2019年1月)

「食べていくためには仕方がない」。私たちは、自分のやりたいことではないことも、あるいは決して善いことだと思わないことでさえも、その言葉で飲み込んでしまうことがあります。確かに私たちは、どんなに心を磨いたり知能を高めたりしたところで、食べることなくしては生きられない存在です。だからこそ「食べていくためには」ということが重くのしかかってくるのです。
 そういう私たちですから、もし、「食べていくため」の状況を、他のものによって恣意的に作り出されることがあったならば、これ以上に人間の尊厳が奪われる行為はないのでないでしょうか。沖縄の米軍基地の問題では、一定数の沖縄の人たちは基地があるから食べていけているのだということが言われます。そして当の沖縄の方たちのうちにも、「近くに人殺しのための兵器があって、人殺しの訓練をしている人たちがいても、食べていくためには仕方がない」と思われる方がおられます。
 もともと戦争がなければちゃんと食べていけていたのに、戦中戦後を通して基地を受け入れざるを得ないような現状を作り上げてきたのは、他ならぬ私たちです。「食べていくため」という、人間にとって背に腹は代えられぬ行為までも、自分の都合の良いように他者を利用する手段としてしまう、浅ましい私たちの姿がここに知らされます。

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