日々雑感2007


矛盾した知恵                    (2007年12月7日)

 先日発表された今年の流行語大賞の中に「食品偽装」という言葉が選ばれていました。最近だけでも、三重の老舗和菓子会社や大阪の高級料亭、大手ファーストフードチェーンと不祥事が相次いでいます。私達にとってはいつ作られて何が入っているのかを知るには作り手の情報を信じるしかないのですから、そこでルールを破って嘘をつくなどということは言語道断だと思います。
 ところで今回の事件の本筋とは直接関係ないのですが、こういう問題が起こった時に、不当表示のされた食品を食べて体の調子を崩したというニュースはあまり聞かないなあとふと思いました。どうも近頃の私などは表示されている消費期限に少々神経質になりすぎているところがあって、期限切れのものを口にするのは気が引けてしまうのですが、実際にはそういう期限というのはあくまでも目安としてあるものなのだという事をこうした事件から皮肉にも再確認させられました。
 どうやら私達は一定の基準を作ると、いつの間にかそれを絶対的に正しいものと思い込んで、それに外れるものはたとえ結果が正しくても、間違っているものと決め付けてしまっているところがあるようです。けれども今回の食品の件にしてもそうですが、消費期限が切れていようが体を壊さないのならば、それは食べられるものであるというのが真実なわけです。本来はそういう「真実」を分かりやすくするためにそれを表すための基準を作ったはずなのに、いつの間にやらその基準によって自分自身の生活が心身共にがんじがらめに縛られてしまっているという、そういう本末転倒な事が起こっていることが現代の私達にはままあるのではないでしょうか。この機会に、そういう矛盾を犯している自分自身をもう一度見つめ直せればと思います。


自由であることの責任                (2007年9月26日)

 近ごろ見なくなりましたが少し前のテレビで、地球にやって来た宇宙人が空港で大騒ぎしている子供達を見て、「この星の親は、子供を叱らない...。」とつぶやく缶コーヒーのCMがありました。確かにそういう光景をよく目にする気がします。ただ、ひと昔前の子供には「子供らしさ」というものが求められ、子供だからという理由で理屈の分からない規則や態度を否応なしに押し付けられるということも多々ありましたので、そういう意味では健全な姿に近づいてきたという一面もあるのかもしれません。
 これには、今の親の世代がそういう少々度を越した理不尽なものを感じてきた事への反動が表れているのかもしれません。とはいえ昔の規則であっても、ただ頭ごなしに押し付けるだけでなく、何故それが大切なのかをしっかりと話し合えば納得できるようなものも沢山あったように思います。何か今の子供達に対する寛大さの中には、子供の自由という口実で、人間生活になぜ規則が必要なのかを説明する責任を私達が投げ出してしまっている所もあるように思えてなりません。そもそも私達自身がそこをちゃんと確かめられているのでしょうか。
 自由を尊重するというと聞こえは良いですが、この世の中は誰もがやりたいように生きていく訳にはいかないのが現実です。自由というのは自分だけが自由なのではなく、一人一人誰もが自由だということなのですから、私達はお互いにその自由を大切にしあっていく責任があります。そんな現実の中に、今まで我慢することを教えられてこなかった子供がいきなり投げ出されることになったら、これほどその子にとって厳しい事はないんじゃないでしょうか。確かに私達は誰もが自由です。けれども自由であるということは、そのまま自分一人が自分自身に対して全面的な責任を負わなくてはいけないという事です。それを見失う訳にはいかないと思います。


エコロジー                     (2007年9月3日)

 ようやく暑さも落ち着いてきましたが、この夏は記録的な猛暑になりました。今年に限ったことではないのですが、この時期には決まって「お寺は涼しいんでしょう?」と尋ねられます。屋根の高い木造建築ということでそういうイメージがあるのでしょうが、本当に暑い時には実際はどこであっても大して変わりません。ましてや住宅地の中にある寺院ですので、周りをアスファルトの道路で囲まれて、エアコンの室外機の熱風がそこかしこから排出されている環境です。今の時代に自然の涼しさを求めるのはなかなか難しいことなんじゃないでしょうか。こういう話題になると「昔は良かった」とも言われるのですが、実際には、土煙やぬかるみに悩まされる舗装されない土の道路や、エアコンのない生活に戻れるのかというと考えてしまいます。昨今はエコロジーということが盛んに言われますが、せいぜいエアコンの温度を下げたり、環境にやさしい材料を使ってものを作るという程度のことで、元々それらのなかった生活に戻るということはそうそう考えられません。
 とはいえ、自分の快適さを保つためにこのまま更に自然環境に迷惑をかけ続けていくのでは、かえって自分自身の快適さを失っていくことになることに私達も薄々感づいてきています。良くできたもので、私自身はどこまでも自分の快適さを求めずにおれないのですが、それを追い求めていくと、実際には他の生き物達に極力迷惑を掛けないようにせざるを得ないような仕組みになっているという事です。こうしてみると、私というのはどうにもマヌケな存在ですが、「人間」という視点に立たされてみると、生き物同士がお互いに尊重しあって初めて成り立つ世界に自分も生きているんだなという事に改めて気づかされます。エコロジーというのもそんな思いから踏み出せる一歩があるように思えます。


理想と現実                     (2007年7月10日)

 世間では宗教心というものは廃れてしまったもののように言われていますが、インターネット上では意外と活発に宗教の話題が交わされているのを目にします。こうした互いの顔が分からない世界の方が自分の心中を素直に披露し易いのかもしれません。そんな中、宗教家なんてものは理想論ばかり言って、実際生活していくには何の役にも立たないじゃないかという厳しい意見も度々目にします。
 私は仏教の事しかよく分かりませんが、確かに世の中を見て見ると、仏教の説く世界とはかけ離れた現実が広がっているようにも見えます。そうしてみると、仏教というのは理想ばかりを言っていて現実離れしていると感じられてしまうのかもしれません。 しかし、現実的でないからといってそれが間違っているという事にはなりません。逆に言えば「それは理想論だ」と言う人にとっても、それが理想的なことだと感じているということは否応ない事実な訳です。ただそこにあるのは、その理想を現実に近づけようとするのか、理想から目をそらして現実におもねる生活を選ぶのかという、人生に対する価値観の違いに過ぎません。ともかく、現実的でないからといって、それが夢幻のようなものだということではなく、誰もが理想と思う以上は、それは私達にとって本当に大切なものなのだろうということです。
 私達が忘れるわけにいかないのは、理想を曇らせる現実を作り出しているのは他でもないこの自分であるということです。ついつい理想を実現させる事を他人や社会などの周りの者に求めるばかりになってしまっていますが、他人任せでは現実に押しつぶされてしまうのも無理の無いことです。理想だと思わされるものに出会った時にどういう姿勢でそれに臨むのかということは、決して他人に委ねることの出来ない、自分一人に課せられた問題なのではないでしょうか。


「近頃の若い者は・・・」              (2007年6月15日)

 当寺は名古屋近郊にあるのですが、その名古屋で先月から古代エジプトを舞台としたミュージカルが上演されています。それにちなんで、地元の新聞に、有名なエジプト考古学者に高校生が取材をするという企画が掲載されていました。その方が「今の高校生に言いたいことは」という質問に答えて、自分はエジプトの古文書で「学生が勉強しなくて困ったもんだ」とか「生きているのが嫌になっちゃったから死んでしまいたい」というのを読んでいるから、昔の人はこうだからこうしろという考え方はないのだと話しておられました。成程、大きな歴史の中に視点を置いておられる方は、高だか二・三十年長く生きているからといって、自分の観念を他人に押し付ける事の無意味さを感じておられるんだなあと教えられました。
 そういえば、「武士道といふは、死ぬことと見つけたり」という言葉で有名な、山本常朝の『葉隠』という江戸時代の書物の中に、「最近の若侍は、お金やファッション、女の子のことばかりに一生懸命でなんともけしからん」という件があったのを思い出します。こんな批判はいつの世にもあったもののようです。大人が若者を「近頃の若い者は」と嘆き、逆に若者が大人を「だから年寄りというのは」と批判するのは、遥か昔から変わる事なく延々と繰り返されてきたことなのでしょう。そして実際、今の私達も相変わらず、各世代の間でそれぞれの価値観を押し付けあいながら生きています。やはりどうしても、自分達の世代の考え方、やり方というのが一番良いものに思えてしまうものですし、そう思わなければ人生やってられないという所もあるのじゃないかと思います。これは自己防衛機能のようなもので、私達にとってはある程度仕方のない事なのかもしれません。
 もちろん、どんな時代や民族をも貫いて大切なものというのもあるのだろうと思います。けれども、少なくとも自分達が常識としている事に他所から疑問を投げかけられた時には、これがあたりまえの事なんだと突き放してしまうのではなく、他人と広く通じ合うことの出来ない考え方が本当に常識と言えるのだろうかと、もう一度自分自身に問い返して見る必要もあるのではないかなと考えさせられる昨今です。


「想像力」のある人間                (2007年5月15日)

 数日前、少し気になるニュースを目にしました。それは北海道での話ですが、約50年余りにわたってアイヌ民族の伝統儀式である「イヨマンテ」を禁止してきた通達が、この4月に撤廃されたというものです。この儀式は、熊の形をして訪れてきた霊魂を神の国に送り返すという意味を持つ儀式で、1・2年間飼育してきた熊を殺してその肉を皆にふるまうというものだそうです。これを北海道が「野蛮な行為で廃止されなければならない」として、約50年もの間事実上禁止してきたということです。確かにどんなに宗教的行事であるからといって生き物の命を奪うことが肯定されるものではないとは思いますが、少なくともこの行事ではその熊を皆でいただくということなのですから、私達の日々の食事と同じように、その生き物の命を大切なものとしていただいている行為のように私には思えます。
 こういう事例を取り挙げると、何も子熊を殺す事もないじゃないかとも思われるかもしれませんが、それを言ったら私達も同じ事を欧米諸国から言われて、その不条理さに憤っている方も多いのでないかと思います。何の事かと言いますと、クジラを食べる私たちの文化の事です。欧米の人々はクジラは賢い動物なので食べるべきではないと言って、どんなに私達が捕鯨は昔からの文化だと主張しても、他に食べるものがあるのに何もクジラを食べるような野蛮な事をしなくてもいいじゃないかと言う訳です。何が野蛮で何が当たり前の事かという観念を押し付けられて、私達の多くが不条理な思いを感じてきながら、一方では自分達が少数民族の方達に同じ事をしつつ、それを50年もの間見過ごしてきたのです。同じ事をされる立場に立った時の気持ちも充分に分かっていながら、それをする立場に回った時にはびっくりするほど無神経になっている事がままあるものです。
 ほんの少し想像力が働かされれば、不条理に捕鯨を非難されている私達には、子熊を使った宗教儀式を頭ごなしに禁止されたアイヌの方々の気持ちを知る事が出来るはずです。もちろん「相手の気持ちに成る」という事は、それぞれに違った個性を持った人間同士、どうやったって不可能な事ですが、客観的な所から「相手の立場に我が身をおいてみる」ことでどんな気持ちがするだろうかを知る事は、少し想像力が働かされれば私達には出来るはずの事なのです。何事につけても私達は、正しいか悪いか、加害者か被害者かという単純な見方に陥りがちですが、本当は私達は生きている限り、一人一人が被害者でありかつ加害者である存在だと思います。だからこそ他人の痛みに想像力を働かさせてもらう事だって出来るのではないでしょうか。私達が共に生きて行く上では、そういう「想像力」というものを育ませていただくことがとても大切な事なんじゃないかと思います。


謝る事の難しさ                   (2007年4月2日)

 先日新聞を読んでいると、「日本ほど政治家の失言が問題にならない国も珍しい」と書かれた記事が目にとまりました。そういえばここ2・3ヶ月の間にも、女性を子供を生む機械に例えた政治家や、日本のような単一民族国家は世界でも珍しいという、日本国民である数々の少数民族の人々を無視するかのような発言をした政治家がありましたが、問題になったのもせいぜい一月かそこらで、今ではそんな話題はさっぱり聞かれなくなりました。かく言う私も、記事を読んでそういう事があったなあと思い出した次第です。方法の良し悪しは別として、他の国なら大規模な抗議行動が続いているであろうに、何事もなかったように件の政治家が元の地位に就いたままでいられるのは日本くらいのものだろうとその記事の最後は締められていました。
 さて、その政治家の方達はこの失言問題があった後、あくまでもそれは例え話として言っただけで、自分はそんな差別的な考えは毛頭持っていないと弁解しておられました。こういう問題を抱えると私などは、「そういうつもりで言ったんじゃない」とか「本当はそんなこと考えてはいない」と、ついつい自己弁護に走ってしまいがちになります。けれども乱暴に言ってしまえば、自分が本当はどう思っているかなどというのはこの際どうでもいい事です。それよりも、自分が言ってしまった事によって実際に傷つけてしまった人がいるということこそ、本当に目を向けなければいけない所なのではないでしょうか。そうすると、そういう事を安易に言ってしまう自分の心の奥底にある、そうした差別され傷つけられる人に対する無神経さが恥ずかしく感じられてきます。自分は本当は良い人間なんだと言い訳をする前に、ひとこと傷つけてしまった人に謝ることができるかどうか、当たり前のようですがそれがとても大切な事のように思います。


教育と調教の違い                  (2007年3月4日)

 愛知県の児童自立支援施設で、入所中の少年が警察に連行されていく様子を他の入所少年達に見せるという出来事がありました。施設によると、法を犯すとこういう責任を取らなくてはいけないという事を知らせる良い学習の機会になるということで、実際にその後入所者達がおとなしくなったとも言われていました。確かにルールを破るとどんな罰があるかを現実に見せるのは効果的な方法なのでしょうが、果たしてそれは本当の「教育」なのでしょうか。恐怖によって抑制するのならば、それは動物を「調教」するのとどんな違いがあるのでしょう。賛否両論ある教師の体罰などもそうですが、今回の出来事も、どうもそこのところが私の心に引っ掛かっています。愛情があるとかないとかいうことが言われますが、その手法が動物的な恐怖心に訴えかけるものであるという現実は変わらないように思うのです。
 私達が共に生きていくためには一定のルールは必要です。けれども恐怖(脅し)によってルールを守らせようとするのでは、ルールを守った方が守らないよりも自分にとって有利だという判断が働くだけで、あくまでも自分中心で物を見た上での比較の問題にすぎません。それでは、罰を受けてでもそのルールを破った方が自分の為になると考えれば、簡単に破れてしまうということになる訳です。しかし現実の私達は、どんなに突っ張ってみたところで、お互いを尊重しあうこと無しには自分が生きていく事ができません。そこを踏まえて、ルールは個人的な損得の為にあるのではなく、お互いの為に欠くことのできないものなのだという感覚を育ませてもらうことが大切なのではないかと思われます。


人生観の色々                    (2007年1月24日)

 フランスで、全ての市民に住宅を保障することを行政に義務付ける法律を作る動きがあるそうです。約10万人のホームレス、他にも事情があって住宅が見つからない人が80〜100万人いるといわれている社会背景があってのことでしょうが、何より、欧州の人達に多くみられる、人間は財産の有無に関わらず平等にある程度のレベルの生活を送れなければならないという考え方がよく表れている出来事のように思います。日本でもこの時期になると、よく公園でホームレスの人達に炊き出しをしている様子がみられます。こういった活動も、出来るだけ平等にある程度の質の食物を分配したいという思いがあっての活動だと思います。
 それぞれ色々な事情があってホームレスになられたのでしょうから、こういう活動は大切なことだと思います。ただ、こうした活動をすることを手放しに立派な事だ、偉い事だと言って満足している訳にはいかないとも感じるのです。というのも、大抵こういう時に考えるのは公共の宿泊施設を作ることであったり、食物を持って配りに行ったりすることばかりで、家がなければ自宅を開放するので一緒に暮らしましょうとか、自分が食事をする時に来てくれれば分け合って一緒に食べましょうという発想はなかなか出て来ません。相手を自分のような生活になるようにとするばかりで、自分がホームレスの生活に合わせていこうとすることはなかなか出来ません。自分の家を持って、ある程度のレベルの食事が出来てという、自分の考える常識的な生活水準に皆が合わせることが大切なんだという思いがそこにはあるように思います。更にその根っこには、ホームレスの人達の生き方が自分の生き方よりも劣ったものだという感覚がどこかにあったんじゃないかと考えさせられます。
 当然ながら、人生が何によって充実するかは十人十色です。お金や家があることで充実する人、権力があることで充実する人もいれば、時間や自由があることで充実する人もいます。もちろん我を通して他人に迷惑をかけるとなると話は別ですが、家があるから、食べ物に困らないからという事が、必ずしも全ての人の人生を充実させる訳ではないということだけは忘れないようにしなくてはいけないのではないかと思わされます。

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