日々雑感2008


こんにゃくゼリー                 (2008年10月24日)

 先日テレビを見ていると、こんにゃくゼリーの某大手メーカーが製品の製造中止を発表するCMをしていて驚かされました。確かに最近痛ましい事件がありましたが、正直な所そこまでしなければいけないのだろうかという思いがあります。正月三日の新聞を見ると、毎年何人かはモチをのどに詰まらせて亡くなったという記事があるように思います。モチが良くてこんにゃくゼリーが駄目な理屈はなんだろうと考えてしまいました。同じように思われた方はけっこう大勢おられるようで、モチを食べることによって死亡する割合と、こんにゃくゼリーを食べることによって死亡する割合を計算している方がおられまた。それによると、ここ十年では、モチが原因で亡くなる確率は、こんにゃくゼリーの十倍という結果になっていました。この計算が統計的に正確なものかは分かりませんが、やはり、どこか釈然としないものがあります。
 さて、そういう矛盾も感じるのですが、それとは別に今回の一連の騒動で最も考えさせられたのが、「食の安全」って何だろうということです。絶対に害が無く、確実に栄養になるものが、のどを滑り落ちるばかりの状態で目の前に提供されるのが当たり前のことだと、それが消費者の権利だと、そう私は考えていたように思います。しかし改めて考え直してみると、ものを食べるというのは本当にそういう事なのだろうか、自分にものを食べる権利というものがあるのだろうかという気持ちが湧いてきます。確かに、加工品の原材料や、農作物に使われている薬品について知る権利が私達にはあると思います。けれども、その「知る権利」と「食べる権利」というのを混同してしまっていたのではないかという事が思い直させられます。
 私は「食べ物」と言いますが、もともと食べられるためにそれがこの世に存在していたわけではありません。動物であれ植物であれ、天然であれ養殖であれ、誰かに奪われるためにこの世に生まれてきた命など一つも無いはずです。そういう根本的な部分を見失って、いつの間にか自分に「ものを食べる権利」があるかのように思い込んでいたのですから、なんとも浅ましい事で、恥ずかしい思いがします。自分の権利という所にしか目が向けられなくなっている日常を、もう一度見直してみる必要があるなと考えさせられる出来事です。


私」は一人、「あなた」は大勢という視点       (2008年10月3日)

 地元のニュースですが、腰痛の治療で入院中に、拘束具でベッドに縛り付けられたお婆さんが、病院に損害賠償を求めた裁判で勝訴したという記事を見ました。詳細は分かりませんが、この方は、看護師にオムツをはかされて抑制具でベッドに固定されたということです。そうされたことを家族にも黙っていたそうなのですが、人伝にそれを聞いた家族が、「なぜ自分達に言わなかったのか」と尋ねたところ、涙ながらに「そんな恥ずかしいこと言えるか」と答えられたということです。
 看護師の方からしてみると、おそらくそれほど特別なことをしたという気持ちは無かったのではないかと思います。こういう事例の時に通常している処置をしただけのことなのかもしれません。けれども普段から人一倍身だしなみに気を配っていたというこのお婆さんにしてみると、そうされたことが自分のプライドを完全に否定される重要な一点だったという訳です。こういう事は医療の場だけではなく自分にも思い当たることです。私のように僧侶をしていますと、月に何件かのお葬式に立ち会うことになります。そうすると、どうしてもお葬式が特別なもので無く、日常あることの一つにしか見えなくなることがあります。けれども、もちろん当事者にとっては、それはたった一人の大切な方との、たった一度のお別れの時なのです。そのことを見失っていたんじゃないかと反省させられます。ものを作る人、人にサービスをする人、それが自分の日常の中になっていると、どうしてもたくさんの中の一つ、大勢の中の一人という風に見てしまいがちになりますが、受け取る側にしてみると、それがたった一つ、たった一度の大切のものだということが往々にしてあるのではないかと思います。
 そうしてみると、自分が生きているということは、自分の周りのたった一つのその相手の、たった一度のその時に、大きな影響を与えているのだということに気づかされます。私達は、お互いに対してそういう大きな責任を担い合いながら、かけがえの無い一人一人として、取り返しのつかないたった一度のこの時を一緒に作り出しているということです。これは、忘れてはいけない大切な事実だと思います。


お仏壇と仏さま                   (2008年8月9日)

 一般家庭のお仏間には、よく亡くなられた先祖の肖像写真が飾られていることがあります。その写真の取り扱いについて、ここのところ何件か立て続けに質問をいただく機会がありました。まず結論から言ってしまうと、仏事作法においては何の決まりもありませんから、それぞれの心持ち次第で好きにされればよいということになります。お仏壇の中のお飾りについては基本的な作法がありますが、お仏壇の中に個人的な写真をお飾りするということはありませんし、お仏壇の外のことは仏壇のお飾りとは無関係なことになります。写真云々については、仏事の問題ではなく風習の問題だと言えると思います。
 さて、そういう事も含めて最近気になる話を耳にすることがよくあります。と言うのは、これまでは先祖の写真が仏間の鴨居の所に飾られているお宅が多かったのですが、「仏様の上に人の写真が来るのはよくないと聞いたので下に降ろしました」と言われる方がしばしばおられるのです。また、写真の話ではありませんが、仏壇にお飾りする仏花について、「仏様に対してお供えするのだから、表側を仏様の方に向けなくてはいけない」と言われて、これまでとは逆向きに飾られているお宅があったという話も聞きました。もっともな話のようにも聞こえますが、仏様とはそういうものなのでしょうか?お仏壇という形があると、何となくその中に仏様なり先祖の霊魂なりといったものが実体的にいるかのように思えてしまうのですが、もしそうならば、そういう大切なものをあんな狭い箱に押し込めて、自分は大きな家に悠々と暮らしているというのは、ずいぶんと酷い話じゃないでしょうか。
 お仏壇というのは、仏様が、本物の、ありのままの世の中を私達に気付かせようとして下さっているのを、仮にああいった形として表現したものです。本来この世の中には、上も下も表も裏もありません。そういうものを作り上げているのは私達の観念です。それによって生き方が豊かになるのならともかく、大方は、そういう上下や表裏にものを分けてみようとする観念によって、返って迷い振り回されているのが実情じゃないでしょうか。仏様の示してくださる世界まで、そういう自分の狭い観念の中に押し留めてしまっているようでは、お仏壇の本来の意義から考えて本末転倒なことだと言わざるを得ないと思います。


人が人を裁くということ               (2008年7月3日)

 痛ましい事件が続いています。秋葉原の連続殺傷事件や下校途中の女子高生が殺害された事件、マンションの同じ階の住人による女性殺害など、ここ数ヶ月だけでもいくつもの事件が思い出されます。連日放送されるそういった悲しいニュースを聞いていて、ふと気になることがありました。それは、「何の落ち度もない少女を襲った悲惨な事件」とか、「罪のない人々を次々と手に掛けた非道な犯人」という言い回しを度々耳にしたことです。もちろん言っておられる方に他意は無いのでしょうが、私のようなひねくれ者が聞いていると、「なにか落ち度のある人は殺されても仕方が無いということになるんだろうか?」「悪い事をした事がある人は酷い目にあっても当然なのだろうか?」と考えてしまいます。
 確かにうがった見方だと自分でも思うのですが、実際に自分のことを考えてみると、心の奥の正直な部分では、そういうふうに思っているところがあるようにも思うのです。品行方正な生活をしている人が事件に巻き込まれたなら、素直に悲しんだり犯人に腹を立てたりもできるのですが、犯罪を犯した事があったり、周りといざこざを起こしていたりするような人が酷い目にあったと聞いても、同情できないどころか、かえってスッキリしている事まであるのです。そうやって私は、常に他人の善し悪しを、自分の気持ち次第に裁いています。
 もちろん様々な人が一緒に生きていくこの社会に何らかのルールは必要だと思います。とはいえ、それはあくまでも私たちが共に暮らしやすくするために止むを得ないものだというだけで、それが絶対的に正しいものだとは言えないはずです。そこを見失って、「これがあたりまえ」、「これが常識」という言葉で片付けてしまっている事がずいぶん多いように思います。本来他のものを裁けるような存在でない自分が、常に人を裁きつつ生きているのです。そういう事実を忘れてしまうと、それぞれの気分次第の個人的な「正義」がぶつかり合うことになっていってしまう事がよく起こります。それはとても危険なことなのではないかと思います。


住職就任のご挨拶                  (2008年6月11日)

 この度、新しく阿弥陀寺住職に就任させて頂くこととなりました。寺伝によりますと、第二十代の住職になるということです。これを年数にすると五百年余りの歴史があるということになります。想像もつかないような長い時間を経てきているわけですが、お寺の歴史というのは、ただそこに建物があるというだけでは成り立ちませんから、この長い年数は、お寺を支えてきて下さった数え切れない方々の歴史だと言えます。そう考えると大変な重みが感じられます。
 どうもお寺のこととなると、古臭い不合理なものというイメージが持たれがちですが、こういう、大勢の人の手を経て自分の所まで伝わってきたという歴史だけは無視するわけにいきません。この先いつまでお寺という場所が必要とされていくのか、いつまで身の回りで仏事が続けられていくのかは分かりませんが、少なくとも今の時代を生きている私達は、先にこの世を生きてくださった数え切れない先輩達が、何を大切に思い、何を伝えようとしてきて下さったのかということを真剣に知ろうとする責任があるのではないかと思います。そうする中で、今度は、私たちの後に続く無数の命たちに何を伝え残していけるのかが見えてくるようにも思います。
 何だか大げさな話のように聞こえますが、こういう想像もつかないような大きな歴史の中の一人として生きさせてもらっている実感というのは、自分の生きる意味、生きる勇気を持たせてくれます。私達は、自分の存在価値を、誰かから好かれているか、社会の中で重要な位置を占めているか、というようなことで確認しようとしがちなものですが、たとえ自分が死んだときに涙を流す人が一人もいなくても、たとえ社会のためになることが何一つできなかったとしても、自分の先に生きられた無数の命が自分のためにこの世界を残していってくださり、自分の生き方一つに、このさき生まれてくる多くの命が暮らす世の中の在り方が懸かっているという事実があるわけです。歴史の中の自分に目が向けられると、自分が生きさせてもらっている「いのち」の本当の大切さというものが感じられるんじゃないでしょうか。そういう、伝え伝えられていく大切なものを、今を共に生きてくださる皆さんと確かめ合っていければと願っております。今後とも宜しくお願いいたします。


チベット問題                    (2008年4月13日)

 中国政府のチベットへの対応に抗議して、各国で北京五輪の聖火リレー中に抗議活動が行われています。ところが、その様子は中国本土では一般市民に伝えられていないということです。やはり、事実を知り、自分で考え、思いを表現するという自由を、力で押さえつける中国の在り方は、とうてい同意できるものでありません。ただ、他国での事なので客観的にその怖さを知ることも出来るのですが、この日本でも、靖国神社を扱った映画の上映に圧力がかかったり、反戦ビラを自衛隊宿舎のポストに入れることが犯罪だとされるような近頃の状況を見ていると、知らない間に私達の目に触れないように遠ざけられてしまっている事実も沢山あるのだろうなと、何だか恐ろしい思いがします。
 ところで、チベット問題に戻るのですが、私はこのところ、現在行われているような形での抗議活動というのが本当に効果的なものなのかという事に少し疑問を感じています。各国での抗議の様子が伝えられていない中国国内ならばともかく、事の流れを把握することのできる立場にいる欧米に住む中国の人達が、聖火リレー中の抗議活動に反発して、そこここで小競り合いが起こっている様子を見かけます。多くの人に注目してもらうためには有効な方法なのでしょうが、それでも、力ずくで訴えようとすれば、相手も冷静に考える前に意地になってしまいます。ここで一般市民の間で新たな反発や憎しみを生み出しあってしまっていては本末転倒です。そういう訳で、私自身も、自分が中国の姿勢に同意できない意思を表したいとは思うのですが、デモ行進や、行事への乱入という形はどうもしっくりきませんし、何をすればよいのだろうというジレンマがあります。
 ただ、よく考えてみれば、私達が安いからと中国製品を買ったり、経済成長を見込んで日本企業が次々と中国市場に投資していたり、また、物見遊山の観光旅行に行って現地で使ってくるお金もそうですが、そうやって私達が自分の為に出資したものが、巡り巡って今回の軍事費の一部になっているのも事実です。遠いチベットでの事件ですが、世界のどこで起こっていようとも、決して自分と無関係であることなどあり得ません。だからこそ私達は、常に知ろうとし、それについて考える責任があるのだと思います。そうすれば、必ずしも大きな行動を起こすのでなくても、私たち一人一人がそれを心に留めながら取る一つ一つの行動が、きっとそこに影響を与えていく事になるはずです。そういう世界に自分は生きているのだということを忘れる訳にはいきません。


「いのち」の大切さ                 (2008年2月8日)

 ここの所の冷凍食品に毒物が混入していた事件の陰に隠れてしまって、あまり話題にされることがなかったのですが、先日、三人の死刑囚の死刑が執行されたという発表がありました。凶悪事件が多発している背景もあって、近年の調査の結果では、日本では死刑制度に賛成する人の割合がずいぶん多いそうです。私たち日本人には、大変な問題を起こしたら「死んでお詫びをする」という意識がまだ心の奥底に根強く残っているということなのでしょうか、大きな罪を犯した人は、自分の持っている一番大切なもの、つまり「いのち」を差し出して償うべきだという価値観が働いているように思います。
 それは、「いのち」というものを、これ以上ない、究極の価値を持ったものだと受け止めていることの表われだとも言えるのでしょうが、とはいえ、どのような状況であれ、その一番大切である「いのち」を奪っても良いという判断を、果たして自分には下せるものなのでしょうか? よく、死刑制度に賛成する声の中に、「被害者の家族の気持ちになってみたら反対できるのか?」というものがあります。確かに、自分が親族を殺されるような立場に置かれたら、犯人を死刑にでもしなければ収まらないだろうと思います。けれども、この、「被害者の家族の気持ちになって」というのが、実は結構な曲者なのです。自分自身の事を見てみると、酷いことをした犯人だから、死刑になってしまったほうがスッキリすると思っている気持ちが見え隠れします。当事者の心情を思い量っているように見せかけて、実は自分自身の犯人に対する憤りを発散させようとしているかのようなところがあるのです。
 死刑制度に関しては、いろいろな要素が絡み合って、賛否両論あるのが当然だと思います。ただ、日本に暮らしている以上、私達は死刑を執行することによって定期的に人の命を奪っているというのが事実なのです。この、私たち自身が人殺しをしているという事は、それぞれにしっかり受け止めなければいけない事柄だと思います。「いのち」は、かけがえのない大切なものだといわれますが、その大切さというのは、自分達で奪い奪われしてもよいようなレベルでの大切さなのか、それとも何かそういうものを超えた部分で大切だと言えるものがあるものなのか、一度しっかりと考えてみる必要があるように思います。


霊感商法で奪われるもの               (2008年1月22日)

 NHKと民放がつくる放送倫理検証委員会が、昨年放送された霊能師が出演していたバラエティー番組について、出演者への配慮を欠き、非科学的なカウンセリングを押し付けた番組であったとする意見書を発表しました。そういえば、昨年末には警察官が霊感商法に関わっていたという事件がありました。この時には、ニュース番組などで事件の関係者が厳しく批判される一方で、同じテレビ局が、夜のバラエティー番組で心霊現象を扱った番組を面白おかしく放送しているのを見て、何か違和感を感じました。前世やオーラといった、特殊な能力を持った人にしか分からないとされるものを根拠に、出演者の恐怖を煽り、恫喝すらしている様子を見ると、霊感商法との違いはどこにあるのだろうかと考えさせられます。
 とはいえ、テレビというのは私達がそれに興味を持つからこそ放送しているわけです。そういった得体の知れない何かに期待を抱いてしまう一面も、私達にはまたあるのです。霊感商法のような事件の問題点は、思ったような効果が得られないのに、騙されて高額なお金を取られるという所にあると考えられがちです。もちろんそういう部分もありますが、一方で、その同じものをまだ心から信じ込んでいる人達がいる場合も少なくありません。その場合、その人はそれで満足しているのですから、それに見合うだけの対価を払ったに過ぎないという事になります。ということは、詐欺になるかどうかは人それぞれの受け止め方次第ということになるのでしょうか?本当は、金銭を不当に取られたかどうかということが問題の核心ではないのだと思います。重要なのは、私達がその宗教的なものによって、自分の人生を自分で引き受けられないで、他所に責任転嫁をしてしまうような事になってしまっているというところにあるのでないでしょうか。

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