日々雑感2009
自分を過信する私 (2009年12月21日) | |
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二年ほど前に、茨城県の駅前などで通行人ら九人が殺傷された事件があったのを覚えておられるでしょうか。先日その裁判で被告に死刑判決が下されました。今の日本の法律に死刑というものがある以上、そうなるだろうと予想はしていました。ただ、この事件で私がとてもショックを受けたのは、犯人の動機が、「死刑にして欲しかったので、誰でも良いから殺した」というものであったことです。自殺をしたいけれど、一人では死に切れないから、死刑制度を利用して手助けしてもらおうと考えたわけです。まさかこんな発想があるとは私には思いもよらなかったものですから、人間が自分の欲求を満たすための貪欲さというものをまざまざと見せ付けられたようで、愕然とさせられました。 |
おくりびと (2009年10月9日) | |
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遅ればせながら映画「おくりびと」を見る機会がありました。お葬式前の納棺の様子を美しく描いた作品でした。先日、葬儀会社の方とお話しをしていましたら、この映画の影響で、納棺の時に映画のようなパフォーマンスを要求される方が増えて困惑していると言っておられました。死は暗いという先入観があるために、かえってそこを美化して折り合いをつけようとするのでしょうか。死というものをそのままに受け止めきれない私達の有り様がそこにあるようで、考えさせられる現象です。 |
平和ボケって何だ? (2009年9月6日) | |
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衆議院選挙が終わって、新しい政権の誕生が近づいてきました。この新政権に対して、米国が海上自衛隊によるインド洋での給油活動の休止を懸念しているということです。こういったニュースを目にすると、そういえばイラクやアフガニスタンでは、実質的にはまだ戦争が続いてたのだという事が改めて思いだされます。そういえば先月の終戦記念日などには、「とりあえず今年も戦争がなくてよかったな」としみじみ思ったものです。けれども、もちろん現実には世の中に戦争がないわけでなく、中東やアフリカなど、今現在も戦禍に苦しんでいる人々が大勢いるのです。そのことは頭では理解しているつもりなのですが、自分自身に直接被害を被ることがなければ、遠い国の事など忘れて、まるでどこにも戦争などないかのように安心してしまっているのが実際のところです。 |
死の定義 (2009年7月3日) | |
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このところお葬式が続いていました。いくつものお葬式に立ち会わさせてもらっていると、やはり亡くなられる状況というのに型通りということはなく、本当に様々なものだということが思い知らされます。長く闘病された末に亡くなられる方もみえれば、昨日まで元気に見えた方が急に亡くなられることもあります。病院で亡くなられる方もみえれば、一人暮らしのために気づかれるのが遅れるというケースも近頃では度々あります。実際、死を迎えるにあたっては、時も場所も選べませんし、年齢順にという訳にもいきません。こちらの思い通りになることは何一つないものなんだという事を思わずにはいられません。 |
世界に一つだけの花 (2009年5月1日) | |
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有名芸能人が深夜の公園で全裸で騒いで逮捕されるという事件がありました。それを受けて、彼をイメージキャラクターに起用していた総務省の大臣が「最低の人間だ」とその人を強く非難しました。多くの抗議が寄せられて、翌日には「はらわたが煮えくり返り、言ってはいけないことを言った。人間が人間を評価することはできない」と発言を撤回しましたが、私自身も最初にこの発言を聞いた時には、ひどい言い草だと不快感を覚えましたし、多くの方がそう感じたのだろうと思います。 |
苛立ちの原因はどこにあるのか? (2009年3月10日) | |
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当寺の近辺には大きなJRの操車場があったのですが、その跡地の開発が今盛んに行われています。マンションや大きなショッピングモールができて、それに伴う道路整備も至る所で行われています。ひと月前とはすっかり道の様子が変わってしまって、どこを曲がれば良いのか迷ってしまうこともしばしばです。 |
善と偽善 (2009年2月16日) | |
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最近、妻と話しをしていて、「近頃の若い人ならバスや電車で席を譲るのもスマートにできるのかなあ?」という話題になりました。私などはどうも声をかけるのが苦手で、黙って席を立つだけのことが多く、譲るつもりの老人ではなく、近くに居たおばさんなどに座られてしまって愕然とすることがあります。幼い頃からボランティアのことを言われて来ている近頃の若い人なら、そんな時、下手に恥ずかしがらずに上手にやれるのかなと思ったわけです。善い事だと言われていることなら堂々とやればよいのですが、他人の目が気になってしまうので、善い人ぶっているように見られるのではないかということで抵抗がある面もあります。偽善者に見られる事は、やはりつらいものなのではないでしょうか。 |