日々雑感2009


自分を過信する私                 (2009年12月21日)

 二年ほど前に、茨城県の駅前などで通行人ら九人が殺傷された事件があったのを覚えておられるでしょうか。先日その裁判で被告に死刑判決が下されました。今の日本の法律に死刑というものがある以上、そうなるだろうと予想はしていました。ただ、この事件で私がとてもショックを受けたのは、犯人の動機が、「死刑にして欲しかったので、誰でも良いから殺した」というものであったことです。自殺をしたいけれど、一人では死に切れないから、死刑制度を利用して手助けしてもらおうと考えたわけです。まさかこんな発想があるとは私には思いもよらなかったものですから、人間が自分の欲求を満たすための貪欲さというものをまざまざと見せ付けられたようで、愕然とさせられました。
 死刑制度に対しては、私としては納得できないところがあるのですが、それでも犯罪の抑止力という点においては、ある程度効果的なものなのかもしれないと思っていました。けれども今回の事件では、その死刑制度が人殺しの動機となったのですから、根本的にこの考えが覆された思いです。死刑があるから人殺しを思いとどまるだろうというのは、私達の理性や道徳を当てにした話です。どうも私達は、自分自身の道徳心や理性を過信していたのではないかと、今回の事件からは考えさせられます。
 それは、決して特殊な人の特殊なケースだけに言えることではありません。私自身も、何も自分の理性や道徳心が優れているから人殺しを犯さないわけではないのです。たまたま、人を殺してしまうような縁に巡り会わないで済んでいるという、ただそれだけのことです。自分自身の事として想像してみると、仮に戦争に巻き込まれて、殺さなければ殺されるような状況ならば、人を殺してしまうでしょう。そんな大きな話でなくても、例えば昨今よく耳にする老老介護の問題で、自分がその状況に置かれた場合、介護疲れでふと相手に手を掛けてしまうことも十分にありうることだと思います。状況によっては、そこに武器があれば戦争をしてしまうのが自分です。死刑制度という、公に人を殺せる制度があれば、それを利用して自他を殺そうと考えてしまいかねないのが自分です。そういう自分から目をそらさずに、そういう自分を出発点にして、どうやったら、いざというときに人を殺してしまうようなリスクを減らしていけるだろうか、それを考える必要性を、いま感じています。


おくりびと                     (2009年10月9日)

 遅ればせながら映画「おくりびと」を見る機会がありました。お葬式前の納棺の様子を美しく描いた作品でした。先日、葬儀会社の方とお話しをしていましたら、この映画の影響で、納棺の時に映画のようなパフォーマンスを要求される方が増えて困惑していると言っておられました。死は暗いという先入観があるために、かえってそこを美化して折り合いをつけようとするのでしょうか。死というものをそのままに受け止めきれない私達の有り様がそこにあるようで、考えさせられる現象です。
 さて、それはさておき、この映画の中で私にはとても印象的な場面がありました。登場人物がフグの白子を食べながら、「生き物は、生き物食って生きている。死ぬ気になれなきゃ食うしかない。食うならうまい方がいい。」と話すシーンです。この言葉を聞いてふと思い出したことがありました。数年前に見たテレビ番組で、ある女優さんが言われた言葉です。その方は番組の企画で東南アジアのジャングルに住む家庭にホームステイされたのですが、現地ではご馳走とされている虫の料理を出された時、「おいしそうに食べることはできるけど、嫌悪感のあるものを無理に食べるのは、本当にそれをおいしく食べている人に失礼だ」と、料理に手を付けられなかったのです。これは私にとってとても衝撃でした。そこには料理を出してくれた人だけにとどまらず、食べ物としていただく命に対する姿勢も表われているように感じられたからです。
 嫌いなものは食べなくていいということではありません。他者の命をいただく以上、食べるからにはおいしくいただく覚悟が必要であることを思い知らされたのです。それを思うと、好きなものをたらふく食べながら、「ダイエットにはこれがいい」、「あれを食べれば血がさらさらだ」と、そういう食品に飛びついていく昨今の私達のあり方は、食べるという行為に対してどこかが根本的にズレているように感じます。


平和ボケって何だ?                 (2009年9月6日)

 衆議院選挙が終わって、新しい政権の誕生が近づいてきました。この新政権に対して、米国が海上自衛隊によるインド洋での給油活動の休止を懸念しているということです。こういったニュースを目にすると、そういえばイラクやアフガニスタンでは、実質的にはまだ戦争が続いてたのだという事が改めて思いだされます。そういえば先月の終戦記念日などには、「とりあえず今年も戦争がなくてよかったな」としみじみ思ったものです。けれども、もちろん現実には世の中に戦争がないわけでなく、中東やアフリカなど、今現在も戦禍に苦しんでいる人々が大勢いるのです。そのことは頭では理解しているつもりなのですが、自分自身に直接被害を被ることがなければ、遠い国の事など忘れて、まるでどこにも戦争などないかのように安心してしまっているのが実際のところです。
 ここ数年来「平和ボケ」ということがよく言われるようになりました。ぼんやりと過ごしているけれど、いつ自分の国だって攻めて来られるのか分からないのだから、それに備えて十分に戦えるだけの準備をしておかなくてはいけないと言われます。私などは、そんなに神経質にならなくても、ボケていられるほど平和ならばそれを十分に堪能すればいいのにと思ってしまうのですが、どちらにしても、「他所の事は排除するなり目を瞑るなりしても、自分の所だけは戦争に巻き込まれたくない」という都合の良い思いがそこにあることには違いありません。
 以前、ある方が「ボケというのは物忘れをしたりするようになることではない、自分のことしか考えられないようになったことを言うのだ」と言われた言葉が思い出されます。自分の周りのことにしか考えが及ばずに「今年も戦争がなくて良かった」なんて言えてしまったり、自国が攻められないように先に相手を潰しておこう、軍備を整えて他国を牽制してやろうと考えたり、自分の周りのちっぽけな平和しか考えられないようになっている私達は、本当の意味で「平和ボケ」してしまっているのかなと考えさせられました。


死の定義                      (2009年7月3日)

 このところお葬式が続いていました。いくつものお葬式に立ち会わさせてもらっていると、やはり亡くなられる状況というのに型通りということはなく、本当に様々なものだということが思い知らされます。長く闘病された末に亡くなられる方もみえれば、昨日まで元気に見えた方が急に亡くなられることもあります。病院で亡くなられる方もみえれば、一人暮らしのために気づかれるのが遅れるというケースも近頃では度々あります。実際、死を迎えるにあたっては、時も場所も選べませんし、年齢順にという訳にもいきません。こちらの思い通りになることは何一つないものなんだという事を思わずにはいられません。
 そんなことを考えていた時に、先日衆議院を通過した臓器移植法改正案の審議が参議院で始まったというニュースを耳にしました。臓器移植には、賛否両論様々な意見があるのが当然の事だと思います。技術が開発されて、他人の臓器を移植して生き長らえることが出来るようになったり、脳の機能が働かなくなっても体が活動を続けていられるようになった現在、それは人間として不自然なことだから好ましくないなどとも言っておられません。そもそも人間というのも自然の中の一部なのですから、その人間がそういう技術を持った以上は、それを活用していこうとすることが自然でない行為だとも言えないように思います。臓器移植で生きるのも、脳死状態のままに生きるのも、現在では人間としての命の営みの一つの自然な形と言えるのかもしれません。何が人間にとって自然であるのかという議論は、私達自身の手では決して解決しない問題です。
 さて、今回の法改正案で最も問題視されているのは、脳死を人の死と定義することです。これまででは生き延びられなかった状態でも、手を掛ければ生きていくことが出来るようになったのですから、そこに何らかのルールが必要なことは納得出来ます。ただ、何をもって人間の死とするのが本当に正しいのかということは、自分の思いを離れた自然の営みである「死」というものに関わる以上、私達には決して分からない事柄です。ところが、私達はルールを決めると、それに従えば絶対に正しいことをしていると思い込んでしまいがちです。他人の命を頂くことを当然の権利だと思うようになってしまう事にだけは、くれぐれも注意しなければと思います。


世界に一つだけの花                 (2009年5月1日)

 有名芸能人が深夜の公園で全裸で騒いで逮捕されるという事件がありました。それを受けて、彼をイメージキャラクターに起用していた総務省の大臣が「最低の人間だ」とその人を強く非難しました。多くの抗議が寄せられて、翌日には「はらわたが煮えくり返り、言ってはいけないことを言った。人間が人間を評価することはできない」と発言を撤回しましたが、私自身も最初にこの発言を聞いた時には、ひどい言い草だと不快感を覚えましたし、多くの方がそう感じたのだろうと思います。
 さて、こういう他人の失言には敏感に反応することのできる私ですが、よくよく思い返してみると、実は自分自身も知らず知らずのうちに、同じような姿勢を他人に対して取ってしまっていることがあったんじゃないかと思わされます。相手が自分の意にそぐわないと、「こんな人だとは思わなかった」と憤ることがよくあります。相手は元々そういう人であって何も変わっていないのです。ところが、自分の思ったようにしてくれない時には、そんな人だと思っていた自分の読みの甘さを省みることはまずありません。自分がその人に対して誤った認識をしていたことを嘆くのでなく、自分の想像通りでなかったその相手の方に腹を立ててしまっているのです。
 件の芸能人は、「僕らは世界に一つだけの花。一人一人違う種を持つ」と歌っています。こういう耳ざわりの良いフレーズを聞くと、なるほどその通りだと思うのですが、これを、単なる自分が人と違うというコンプレックスを慰めるだけの言葉として聞いていたのでは、せいぜい自分のエゴの言い訳にしかなりません。本当に自分は他人を一人一人の個性として受け止められているのだろうか、考えさせられるところです。


苛立ちの原因はどこにあるのか?           (2009年3月10日)

 当寺の近辺には大きなJRの操車場があったのですが、その跡地の開発が今盛んに行われています。マンションや大きなショッピングモールができて、それに伴う道路整備も至る所で行われています。ひと月前とはすっかり道の様子が変わってしまって、どこを曲がれば良いのか迷ってしまうこともしばしばです。
 そんな中、先日あるお宅にお勤めに行った時のことです。ちょうど隣の道路を拡張中で、その日は日曜日でしたが工事が行われていました。お経をよんでいても大きな音や振動があって騒がしかったので、お家の方に「お休みだというのに大変ですね。」と声をおかけしました。そうするとその方は、「期限が迫っているから急ピッチでやっているんでしょうね。休みの日までご苦労様なことです。」と答えられました。私としては、お家の方がやかましくて迷惑だろうと思って言った言葉でしたが、その方は、休日にまで働いている工事現場の方の苦労を思われたわけです。そこで、「ああ、そういう物事の捉え方があったんだな」と、はっとさせられました。
 私などは、まず自分が快適であるかどうかというところに考えが行ってしまうので、その向こうにある事情にまで想像力が及ばず、そこにいる人の苦労も考えずに、ただ文句ばかりが口をついてしまいます。少し想像力を働かせれば、そこには一人ひとり生身の人間が関わっているのだということが分かるはずなのに、ついつい物事を自分の視点で一方向から判断してしまって、そうして、それが返って自分自身までイライラさせる原因になっていたのだなと思うと、とても考えさせられる出来事でした。


善と偽善                      (2009年2月16日)

 最近、妻と話しをしていて、「近頃の若い人ならバスや電車で席を譲るのもスマートにできるのかなあ?」という話題になりました。私などはどうも声をかけるのが苦手で、黙って席を立つだけのことが多く、譲るつもりの老人ではなく、近くに居たおばさんなどに座られてしまって愕然とすることがあります。幼い頃からボランティアのことを言われて来ている近頃の若い人なら、そんな時、下手に恥ずかしがらずに上手にやれるのかなと思ったわけです。善い事だと言われていることなら堂々とやればよいのですが、他人の目が気になってしまうので、善い人ぶっているように見られるのではないかということで抵抗がある面もあります。偽善者に見られる事は、やはりつらいものなのではないでしょうか。
 そんなことを考えていてふと思ったのですが、そもそも善い事に本物と偽者があるんでしょうか。仮に絶対的に善い事というのがあったとして、私達がそれを本物だと確証できる根拠はどこにあるんでしょう。一般的に偽善と言われるのは、見返りを求めて善い事をする場合です。とはいえ、それが相手にとっても大切な事で、嬉しい事であったなら、願ったり適ったりです。これはやっぱり「善い事」には違いないと思います。逆に、どんなに純粋に自分が善い事だと思ってやったとしても、される相手を不快にさせるような有り難迷惑なものであったならば、そもそもそれを「善い事」とは言えないように思います。そうしてみると、どうしたって、自分が善いと思う事を「善し」とするという以上のことは出来ないでいるのが私達の現実のようです。そこを見失って、自分は絶対的に善い事は何かということが分かっているのだと勘違いしてしまうのが、世の中の様々な衝突を引き起こす根本的な原因で、私達の持つ最も恐ろしくて注意しなければいけない所なんじゃないかなと思わされます。

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