日々雑感2010


マニュアル化された人間関係               (2010年12月)

 今年の十大ニュースが各所で発表されています。その中で私が思い出されたのが、高齢者の所在不明が次々と発覚した事件です。最初は年金の不正受給の問題だと思っていましたのであまり興味を抱かなかったのですが、親族にも所在の分からない高齢者が大勢いることが分かると、いつの間にか報道が、現代の家族関係の希薄さを嘆く論調に代わっていったように憶えています。
 ところでこういったことは、そんなに特異な現象なのでしょうか。子が親の所在を知らないまま、親は親で別の場所で人間関係を築いていたということは昔からあったことです。そしてまた、そうして築いた関係が血縁関係に劣るということは必ずしも言えないと思います。子によって死亡が確認されないで戸籍に残ったままの人が大勢いたからといって、それを現代社会の闇として大騒ぎするのには、どこか違和感を覚えます。
 それよりも現代の私達の心の危うさを感じたのは、そういう公の機関によって人間の生き死にが管理されていないと、何か不安を覚えてしまうというところです。本来私たちは、独り生まれ、独り死んでいく中で、それぞれが人間関係を築いていくものです。公共のシステムの中に自分の所在を確認しなければ落ち着かないというのであれば、それはかえって寂しい事なのではないでしょうか。


チリ鉱山落盤事故の顛末                (2010年10月)

 チリの落盤事故で、地下に閉じ込められた作業員たちが救出される様子が日本でも中継され大きな注目を集めました。その一方で、事故で閉鎖されたこの鉱山で働いていた多くの作業員たちが、鉱山の閉鎖で失業状態となっているそうです。救出された三十三人の人たちの事は私も興味をもって見ていましたが、その事件で影響を受けた他の作業員の人たちの事には思いも及びませんでした。
 どうしても私たちは、ドラマチックなものには大騒ぎして群がり、当事者たちを祭り上げたりしつつ、その周りで、当たり前の事のように行われているものには、改めて目を向けることが出来ないものです。更生した不良少年の話はドラマになっても、問題無く普通に日常を過ごしている多くの子供たちは、なかなかそのことを評価されません。人間一人の人生がショーか何かのように扱われてしまって、私自身も、他人の人生を、自分を感動させ、楽しませてくれるものとしてしか見られなくなっていたように感じます。
 他人の人生を、自分にとって価値があるかどうかで見てしまうのは大変危険なことです。一人ひとりの人間がそれぞれの人生を懸命に生きているという事を、お互いに認め合う想像力が、いま私たちに求められているのではないかと思います。


欲深いもの                       (2010年9月)

 領土問題を巡って、中国との間に緊張関係が続いています。漁船衝突事件で逮捕した中国人船長を解放したことで収束するかと思われたのですが、今度はその謝罪と賠償を要求してきたということです。日本人の私からしますと、この出来事で中国というのは何と欲深い国なのだろうと思ったのが正直なところです。
 とはいえ、少し冷静になって考えてみますと、相手は日本の十倍以上、約十三億もの人口を抱える国です。それだけの人が生活していくのは大変なことでしょう。それならば、魚もたくさん取れて、石油も大量に埋まっているという尖閣諸島を、譲ってあげようという気になっても良いものです。それでも、この島々は日本固有の領土で、それを取られるのは口惜しいと感じている自分がいるわけで、人のことは言えない、私自身も随分と欲深い人間だったのだなと改めて思い知らされています。
 どちらにしても、領土というのは人間同士が勝手に主張しているだけで、島も、動物も、埋蔵物も、誰にもそれを好きにする権利はありません。本来私物化できないものを私物化しようとして、周りと衝突して、相手を疑い、自分自身もピリピリしているのが今の私です。そんな人生が幸せな人生なのだろうか、考えさせられてしまいます。


私は人を殺した。人殺しは悪い。             (2010年8月)

 今年の原爆の日の広島での記念式典に、初めて駐日米大使が出席しました。日本人としては、こんな当たり前に思えることが大きなニュースになってしまう現状も寂しいのですが、米国内の原爆投下を正当だとする人々の間では、この行為が原爆投下への「無言の謝罪」にあたると反発する声も起こっているそうです。
 原爆投下が戦争終結を早めたとする歴史認識には、被爆国として憤りを感じるものがあります。一方で、日本の戦争史観が自虐的だという理由で作成された新しい歴史教科書などは、日本の植民地支配が現地の文化を発展させたということを主張したりして、アジアの国々の人には同じような憤りを感じさせていることだろうと思うと、なんとも悲しいことです。自分が被害者の立場に立った時と加害者の立場に立った時の感覚がずれてしまって、本当に悪い事が何だったのか、あやふやになってしまっている自分があります。
 戦争を経験されたある文化人の方が言っておられた言葉が、いま思い出されます。「私は人を殺した。人殺しは悪い。そうはっきりと言える人間に私はなりたい」。何かにつけて自分のした事を正当化しようとする私が、自分は悪い事をしてしまう人間だと自分自身に認めること、実はこれが一番大切で、大変なことなのだと思います。


一員でなく一人として                  (2010年6月)

 広島の自動車工場で自動車による無差別殺傷事件が起こりました。犯人は以前そのメーカーに勤めていた人だそうで、その父親も長年そのメーカーに勤務していたということです。詳しい動機はまだよく分りませんが、この企業は人間関係のトラブルにも気を使っていたそうで、犯人のこの行為には、本来ならば恩を感じて然るべき相手に対してこういう事件を起こすのはどういう了見なのだろうと感じる人も多いようです。
 とはいえ、恩というものは、他人が「それは恩に感じるべきだ」と言って押しつけられるものではありません。傍からは大変なお世話になっているように見えても、そこに全く恩を感じていない人もいれば、ほんの些細なことを一生の恩と受け止める人もいます。相手が恩に感じていないのであれば、それが本当に相手のためになっていたのか考えなおす必要がありそうです。
 今回の犯人にしても、従業員としては細かな気遣いをしていたとしても、本当にその人を一人の人間として尊重することができていたのでしょうか。このことは一企業の問題ではなく、この現代社会を作り上げている私達一人一人の、他者との接し方の問題になっているように思います。


命の価値                        (2010年5月)

 重度の知的障害のあった少年が施設での事故で亡くなり、その損害賠償額の算定を巡って裁判で争われています。将来の収入見込みから算定する「損失利益」が障害のために想定できず、ゼロと見積もられた事が争点となっているそうです。確かに、どれだけ稼げるかで賠償額に差が出るのは、その人の価値を低く見積もられたようで差別を感じるというのはよく分かります。ただ、金額で価値を判断する限り、合理的な区別だと言われればその通りだとも思います。母親がこの少年の事を、「働くためだけに生まれてきたわけではない」といわれる言葉が重く響いてきます。
 金銭は労働の対価としてやり取りされるものですから、そもそもそれで命の価値を算定しようというところに無理があるのだと思います。ところが、賠償額が亡くなった個人の命の価値の全てを表しているように思えてしまうのが今の社会の現実です。金額によってしか、その人の命の価値を測ることができなくなっている私達の在り方にこそ、悲しさを感じます。本当の命の価値とはどこにあるのでしょうか。それを確かめ合える関係を、私たち一人一人の間に取り戻していく事が、いま必要となっています。


農薬を使うということ                  (2010年4月)

 先日、名張毒ぶどう酒事件の再審請求で高裁への差し戻しが決定しました。これに伴って、当時ぶどう酒を飲みながらも奇跡的に助かった方へのインタビューが新聞に掲載されており、それが非常に印象深い、考えさせられるものでした。
 その方は、事件によって「農薬が恐ろしいものだと身に染みた」とおっしゃられ、事件後からは無農薬の農業を始められたのだそうです。単に犯人が悪い憎いというのではなく、自分自身も当たり前のものとして使っていた農薬の恐ろしさに気づかれたというのは、すごい事だと思います。私の世代ですと、和歌山の毒カレー事件が印象深いのですが、あれにしましても、私はシロアリ駆除薬自体が恐ろしいものというより、それを人殺しに使った人が特別悪い人間だということしか考えておりませんでした。
 普段は自分の都合で「害虫」と位置付けて、当然のように駆除薬を用いているのですが、改めて考えてみれば、それでたくさんの命を虐殺していたわけです。ずいぶんと恐ろしいものを平然と使っているのです。害虫駆除薬を使うという事にそういう事実があるのだとは、私は一切気づいていませんでした。日々の生活の中では些細な事といえ、改めて考えると、そんな自分が恐ろしく思われてきます。


宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要まであと一年      (2010年3月)

 いよいよ来年には、浄土真宗の宗祖親鸞聖人の七百五十回忌法要が勤まります。それにしても、七百五十年というのは気の遠くなるような年数です。日本のように、これほどいつまでも亡くなったその日を大切にする慣習があるのは珍しいのだそうです。そこには仏教のものの見方というのも大きく影響している事と思います。例えばキリスト教では、イエスという常人を超えた存在が誕生した日をクリスマスとして盛大に祝います。一方仏教においては、お釈迦様が一人の人間として、私達に先立って悩みや苦しみに向き合いながら一生を生き抜かれたという事をとても大切にしてきました。そうして亡くなる時を、自分自身の人生を完成された時として、「涅槃」という言葉で頂いてきたのです。
 現在の私達というのは、生きている間に人生の完成を迎えようと躍起になっているようにも思えます。そうして何の悩みも苦しみも無い余生を送ることが良い人生だと思い込んではいないでしょうか。しかし実際には、人生に、あるいは「命」に、余りという事はないのだと思います。長短、貧富、様々な形はあっても、それぞれが一生をかけて自分自身の人生を完成させていくわけです。私より先に亡くなられた方々は、皆、人間としての悩み苦しみに向き合いながらも自分自身の人生を完成された先輩達です。私達はその方々を「仏さま」として手を合わせているのです。


冬季五輪が終わって。。。                (2010年2月)

 冬季オリンピックが終わりました。私は今回の大会にはそれほど興味が湧かなかったのですが、それでも日本選手が活躍するのは嬉しいものです。さて、今大会では開幕前から様々な方面で話題になった選手もありました。公式ウエアの着用に乱れがあったということで批判を受けたスノーボード代表選手もその一人です。私自身も、あのような状況で服を着崩すというのは好みでありません。しかし、この選手を批判する根拠がどこにあるのかというとを自分自身に問いかけてみた時に、個人的な好き嫌いという以外、どうもはっきりしないところがあって、世間の激しい批判もいまいちピンと来ませんでした。
 マスメディアを見ていると、日本を代表しているのだからきちんとした格好をするべきだ、団体行動なのだから規則に従うべきだ、というようなことが言われていました。確かに、公の場ですから、彼の格好を不快に感じた方も多かったかもしれません。しかし今回の事は、お葬式に派手な服装をして行ったり、成人式で暴れたりといった、時と場合を考えずに人を悲しませる行為とは、必ずしも一緒にできないのではないかと思います。
 この選手は五輪日本代表選手であると共に、スノーボードという競技の代表選手でもあります。元々、スノーボードというのは、競技中でもズボンをずり下げてはいていたり、自由で独特な服装センスも含めて若者に人気のあるスポーツです。その人気に目がつけられ、夏との分離開催以来人気が低迷している冬季五輪を盛り上げようという思惑で、近年新たに正式競技として加えられたのだということです。そういう意味では、彼の服装というのは、その競技を代表するのにふさわしい姿だったのかもしれません。オリンピックを国威発揚の場としてとらえる人もいれば、その競技のトップクラスの技が見られる所だと受け止める人もいるのです。何が本当にそれにふさわしいということが言えるのか、自分の常識だけでは安易に判断できないものだなと思わされました。

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