日々雑感2011


非戦国家が武器輸出?                 (2011年12月)

 武器輸出三原則が大幅に緩和され、国際共同開発・生産への参加と人道目的での供与を解禁することが決まりました。元々の三原則自体も、武器輸出の全面禁止をうたっているわけではありませんが、実質的には全面禁輸政策を保ってきました。過去には個別に例外措置が取られた事例もあるとはいえ、今後一気になし崩しになり、戦争に加担する国になっていくのではないかと不安を覚えています。
 自国は戦争をしないと言いながら、武器や武器技術を他国に提供するというのは何かおかしな気がします。そういえば先日、国内原発メーカーがリトアニアでの原発建設の仮契約を結んだという記事を目にしました。国内では脱原発が叫ばれながら、他国の原発政策を後押しするというののにも違和感を持ったものです。
 こうした矛盾は決して他人事ではなく、私自身にも思い当る問題です。子牛が屠殺されるシーンを見て「可哀そう」と眉をひそめつつ、美味しいお肉を求めてお店に通うのが私です。自分が善くないと思うようなことを他人にやらせておきながら、自分は清廉潔白、何の罪もない生き方をしていると思い込んで平然としているのです。だからこそ、そんな自分に歯止めをかけてくれるような理念が私には必要なのだと思います。先人が残してくれた大切な規則を、今、目先の欲望で次々と失っていくのは何とも惜しいことです。


馬鹿なやつ、愚かなやつ                (2011年10月)

 復興対策担当相が、津波被害で亡くなった友人のことを「逃げなかった馬鹿な奴」と言われたそうです。当初は、その言葉尻をとらえてマスコミや野党議員の攻撃もありましたが、話の全体は、避難しなかった友人に対する無念さを言っておられたようで、その後大きな問題には発展しませんでした。近頃、会話の内容とは無関係に、問題になりそうな一言だけを抜き出して混乱を煽るような報道が目立つ中、今回は私たちが冷静に物事を受け止められたように思います。
 もちろん「馬鹿」という言葉は決して良い言葉ではありません。多くの人々の注目をうける立場にある人が使ったのは軽率なことだとも思います。ただ「馬鹿」という言葉には、愛情が込められているように感じられる場合も私にはあります。自分自身でも馬鹿なことをしたなと思っている時に、信頼のおける相手から「馬鹿だな」と言われても、不思議と腹は立ちません。
 仏教の話になりますが、実は、仏さまというのも、私たちに対して「煩悩にまみれた愚かなものたちよ」と呼びかけって下さっている存在です。自分が賢いと信じて疑わなければ何て失礼な奴だと思いますが、自分の愚かさを思い知らされてみると、その言葉が何か温かみを持ったものに聞こえてくるのが不思議なところです。


虫供養                         (2011年9月)

 色々な作物が収穫を迎えるこの時期、「虫供養」という言葉を耳にすることがあります。農作業で邪魔になる虫を駆除しておきながら、恨みを残さないように弔おうというのですから虫のいい話ではありますが、考えてみれば、近頃の私たちは虫を殺した罪悪感すら持たないことが多いように思います。そこには、古い時代の非科学的な風習だからと馬鹿にするわけにはいかないものを感じます。
 人間の食料とするためだけに育てられた牛や鶏を伝染病が流行ったからといって殺処分する。虫を駆除して育てた野菜たちを基準値を超える放射能が検出されたからと焼き捨てる。そして、そのことに罪悪感を抱くどころか、自分が健康であるためにそうした処置がとられることを当然の「権利」だと考え、そこに何の疑問も持たないのが今の私たちの姿ではないでしょうか。
 昔の人たちが、動植物の命を奪うことによって、祟られるのではないか、地獄に落ちるのではないかと恐れたことは、確かに迷信だと言えます。けれども、少なくとも悪いことをしたという自覚がそこにはあります。法律で決められたことを守っていれば、まさか自分が悪いことをしているとは思いもよらない、現代の私たちの鈍さが省みられます。


よりそう                        (2011年8月)

 震災以降「よりそう」という言葉をよく耳にします。テレビでも「被災者の方々の悲しみ苦しみに寄り添って、あなたたちは一人じゃないと伝えていきたい」と言われる方があり、自分もそうありたいと思わされたことです。
 寄り添う形というのはそれぞれで、専門家は復興の知恵を出し、私たちはボランティアや義援金などでその気持ちを示しています。また、そうした生活の援助だけでなく、被災者の心に寄り添いたいという気持ちもあります。それがよく表われたのが、震災直後のテレビの様子だったのではないでしょうか。それまでのバラエティやドラマ、CMまでもがなくなって、どの局もニュース一色になりました。これは、被災地の方々の苦しみ悲しみを思うと面白おかしい賑やかなことなどやってはおられないという気持ちの表われだったのだと思います。一時期、自粛ムードというものも広がりましたが、私自身としては、今でも楽しく騒ぐことにはどこか後ろめたさを感じます。
 そこでふと思ったのが、震災前の私はどうだったかということです。震災前にはすべての人が幸せだったのかといえば、もちろんそうでありません。けれども、私はこれまで楽しいことをするのに後ろめたさを感じたということはありませんでした。悲しみ苦しむ方々の心によりそうということを、考えもしないまま生きてきた私なのです。この自分の根っからの無神経な冷たさを認めなければ、今の気持ちも、しょせん一時的な感傷で終わってしまうのではないかと思われています。


快楽のリスク                      (2011年7月)

 モンゴルに国際的な核処分場を造る計画が進められようとしています。なぜ、ほとんどが大国や大都市のために排出されている核廃棄物を、モンゴルで処理することになるのでしょう。福島の原発事故でも、東京で大量に消費される電力をなぜ福島で作っているのかと話題になりましたが、それと根を同じくする問題です。
 私たちが私たち自身の利便のためにリスクを負うことはまだ分かります。それでも他の多くの命に迷惑をかけることは避けられないでいるのが現実です。ましてや、経済力に物を言わせて自分はリスクを負わないで、弱い所、貧しい所に危険を丸投げするというのは何とも恥ずかしい話です。核廃棄物というのは、いまだに処分方法さえ確立していないものですから尚更です。
 先日ある方が言われていた話を思い出します。私たちはこれまで原発によって恩恵を受け、便利な生活をしてきました。今回原発事故が起こって放射性物質がまき散らされた以上、私たち自身が汚染された土地に暮らし、汚染された食物を消費して、この先に生きていく子供たちに清浄な物を回していく責任があるのだと言われるのです。自分の生き方に対する覚悟がいま問われています。


村上春樹氏「非現実的な夢想家として」          (2011年6月)

 6月10日、カタルーニャ国際賞を受賞された、作家村上春樹さんの「非現実的な夢想家として」というスピーチを目になされたでしょうか。今回の原発事故を受けて、私たちが「非現実的な夢想家」であることの大切さを確かめ直されるお話で、とても心に響いたスピーチでした。
 私達は時に、「現実」と「真実」を取り違えてしまうことがあるように思います。例えば、死刑制度の存廃が問われると、「被害者の気持ちを考えたら死刑廃止は現実的でない」と実際的な感情面ばかりに目が向いて、「殺すのは悪い」という真実が抜け落ちた議論になりがちです。憲法第九条の改変を考える時にも、必ず「隣国が攻めてきたらされるがままになるのか。現実的に国を守るには軍隊が必要だ」と言われます。そこでは「戦争は悪い」という最も根本的な部分が抜け落ちてしまっています。「殺すのは悪い」「戦争は悪い」と思いながらも、「現実」に自分をすり合わせることの方が実際的な態度だという世の中の風潮に流されがちな私があります。
 しかし、現実に合わせて理想を引き下げるというのでは本末転倒な話となってしまって、決して実際的な態度とは言えません。「現実」は「真実」ではなく、あくまでも私たちが作り出しているものにすぎません。現実を真実だと思い込んで、周りをそこに引き込もうとする私たちの態度こそが一番危険なものなのだということが改めて思い知らされます。


これは自分の責任です                  (2011年5月)

 福島第一原発の事故において、事故発生直後の1号機への海水注入に関する政府・東電の対応の調査結果が発表され、その内容をめぐって随分と混乱がありました。特に専門家の発言に関しての、「言った」「言わない」の騒動には、こういう立場の人たちでもそんなレベルの口論をするのだと驚かされました。素人には「危険性がある」と、「可能性はゼロでは無い」との違いは分かりませんが、政府と専門家と電力会社が、今更ながらに事故対応の責任を押し付け合っているように見えて、どうにも悲しい気持がしてしまいました。
 とはいえ、それらの人たちが責任逃れをしたくなる気持ちもよくわかります。今の私たちの社会は、一部の人たちだけに責任を負わせて、自分はすぐに傍観者か糾弾する側に身を置こうとします。都合の良い時ばかり「人は一人では生きられない」「人はつながり合いの中で生きている」と言いながらも、ひとたび問題が起こると、その問題の起こった原因と自分は必ずどこかでつながっているのだということを省みず、自分に責任があるとは微塵も考えないままに戦犯探しを始めます。
 一人一人がお互いに、社会で起こるあらゆる問題に対して、心から「これは自分の責任です」と言える世の中であったなら、今回のような口論も起こらなかったのではと思います。


東北沖大地震                      (2011年3月)

 関東・東北地方を襲った大災害で、今もまだ沢山の行方不明者や、被災地で苦労している方がおられます。更に、いつ収束するとも予想のつかない原発の状況を見ますと、今ここで普段と変わらない生活をしている自分がもどかしくも感じられます。
 そんな辛い悲しいニュースが伝わってくる中にも、被災地からは、深い感銘を覚えさせられる出来事も聞こえてきます。例えば、震災後数日は、現地で被災を免れたスーパーには、意外と棚に物が並んでいたということです。これは、本当に必要な人に物が回るようにと、それぞれの人が必要以上に買い占めることをしなかったためだと聞きました。極限の状況で、こうして人に譲る気持ちが持てるということは、本当に尊い事だと思います。海外でも、これだけの混乱の中、暴動も略奪も起きずに、避難所で列を作って救援物資を受け取る人々の様子が、驚きをもって報じられたそうです。私達には当たり前の事のように思いますが、本当に大変な時にでも人に譲ることのできる素晴らしい社会を、私達の先祖が伝えてきて下さったということです。
 それができる源にあるものは何なのでしょうか。それは、心の一番深い所にある「安心感」なのでないかと思います。つまり「人に譲ったことで自分が置き去りにされることは無い」と、周りの人を信じることのできる気持です。この人間としての大切な在り方を後世に残していくために、今災害を免れた私達一人一人が、被災者の方々の信頼に物心両面で如何に応えていけるかが問われているように思います。


「一人」の尊さ                     (2011年2月)

 ニュージーランドで大地震が起こり、大勢の人が被害に遭われました。日本からも現地に救助隊が派遣されました。この、日本の救助隊は、「生存の可能性が少しでもあれば活動を続ける」という姿勢が海外から高く評価されているそうで、同国民として心強く思います。災害現場では、三日を過ぎると救命率が急激に下がるということです。しかし、それはあくまでも全体の確率の話であって、その後にでも助かる可能性のある一つの命を尊び、救出に全力を尽くしているのが日本の救助隊の姿勢だということです。
 このことは、考えてみれば当たり前のことでありながら、民主主義にどっぷりとつかった私達がつい見過ごしてしまいがちな、大切な事を教えられているように思います。今の私達は、多数決で決められたことを無条件に正しい事としてしまい、一人一人の思いを真剣に聞くことができなくなってしまっているように感じます。
 全体だけを見て、より効率的なことを残していくというのでは、当然そこから取り残される人が出てきます。たまたま今回その枠に入れた人であっても、今度はいつそこから取り残されることになるか分かりません。そういう社会では、いつ自分がはじき出されるかと、落ち着きません。「一人」が尊ばれて、初めて私たちは安心して生きることができるのす。


万年一年生                       (2011年1月)

 まだまだ寒い日が続いています。勝手なもので、昨夏の猛暑続きが懐かしく思えるくらいです。先日、農業をされている方のお話で、去年の猛暑のおかげで秋に種をまく冬野菜の出来が芳しくないとお聞きしました。その時にその方がおっしゃられた、「私らはいつまでたっても一年生ですわ」という言葉がとても印象に残っています。確かに、農業というのは自然が相手のものですから、一年として同じ気象条件ということはありません。毎年が初体験のものだという言葉には、改めてなるほどとうなずかされます。
 こういった言葉が口から出るのは、決して簡単なことではないと思います。農業と心底向かい合うことがなければ、そうそうこういう心境にはなれないのではないでしょうか。私などが片手間に物を育てても、思ったように実がつかなければ、「本で見た通りにやったのに」、「前はこれで上手くいったはずなのに」と、自分では分かっている気になって、思い通りにならないことに腹を立てるばかりです。毎回毎回、微妙に条件の違うものに臨んでいるはずなのに、その本当のところにはなかなか目が向きません。
 よくよく考えてみれば、それは農業に限ったことではありません。私たちが生きているすべての場面というのが、実は初体験のものであって、私達というのは常に「一年生」を生きているのではないでしょうか。そうでありながら、年を取るごとに、自分はものが分かっているという思いを強くして、自分で自分の首を絞めつけるような生き方をしている私です。そんな姿を今回教えて頂いた気がします。

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