日々雑感2012


愛国心?                        (2012年9月)

 領土問題をきっかけに中国で大規模な反日デモが起こりました。これまでもこうしたことがあるたびに、中国政府が国民の不満のガス抜きのために、これまでの歴史を利用して日本という共通の敵を作り上げ、そこに怒りをぶつけさせているのだという「解説」がされてきました。そう聞くと何とも困った国だと思えてきますが、これを他所の国の体制の問題だとして片づけてしまうわけにはいきません。そこには、私たち誰もが抱えている心の闇が表面にあぶり出されてきています。
 この度のような国と国との領土問題となれば、その国の国民として自国のことを応援するのは自然な気持ちなのでしょう。しかし、同じ国の者同士であっても、両隣のお宅との間に土地問題が起これば、自分の権利を主張することに必死で、同じ国民同士だからと相手に譲る気持ちにはなかなかなれません。逆に、いま領土問題でもめている国と国であっても、仮に宇宙人との間に争いが起こりでもしたら、たちまち地球市民として団結して相手に立ち向かうことになるのではないかと思います。
 「敵の敵は味方」ということがよく言われます。私たちの現実がよく表われている言葉です。とはいえ、共通の敵がいなくては、お互いに心を通わせ、共に生きていくことが出来ないのが本当に私たちなのでしょうか。もしそうならば、人間というのはあまりにも悲しいものです。人と人とのつながりとは何なのか、改めて考えさせられます。


考えを改めるということ                 (2012年8月)

 原発が再稼働され、その賛否を巡って色々と言われています。お勤めに伺った折にも原発のことが話題になることがあるのですが、そうした中である方が、前首相のことを、「それまでは原発を推進していたのに、一たび事が起こったら急に原発反対になって、感情的すぎて信用が置けない」と言われたのが印象に残っています。私たち日本人は、「元々そうだった」「ずっとそうだった」というものに弱いということを聞いたことがあります。そうした気質がこういう言葉にも表れているのでしょうか。
 福島の事故の後、ずっと原発に反対してこられた学者の方が一躍脚光を浴びています。それはとても結構なことですが、それまで原発を推し進めてきた立場の学者さんが、事故をうけて立場を翻したら、私たちはどう思うでしょう。「今まで散々原発を勧めていたくせに今更調子のいい事を言って」と批判をしはしないでしょうか。そういう社会の風潮があっては、事実に直面して考えを改めることもなかなか出来なくなってしまいます。
 私たちは、自分の信念を貫くことは立派なことだと思っています。しかし、個人の心に絶対間違いないという真理は決してありません。それは、目の前の事実に教えられて初めて知ることができるものです。これまで自分が積み上げてきたものを根本から崩すような事実をつきつけられた時、それを受け入れて自分が変わるということは本当に難しいことです。ですから、もしそれが出来たならば、それは実はとても素晴らしいことなのではないでしょうか。


命の天秤                        (2012年7月)

 「台風4号による停電の影響で、養鶏場でニワトリ一万六千羽が死んでいるのを出勤した従業員が見つけた。関係者によると、ニワトリの購入当時の金額を元にした被害額は千六百万円。死んだニワトリは熱中症のような症状だったという」
 これは、先月の台風の被害を伝える地元新聞の記事です。これを読まれて皆さんはどう感じられたでしょうか。私自身は「何も感じなかった」というのが正直なところです。強いて言えば、「千六百万円というのは大変な被害額だな」と思った程度です。
 それでは、なぜ殊更にこのニュースを取り上げたのかというと、先日、六月の時点で確認された東日本大震災による死者が約一万六千人になるということを知ったからです。震災による大きな被害には本当にショックを受けましたし、亡くなられた方のことを思うと、心から悲しく思います。一方で、今回の台風の被害では、それと同じ数のニワトリの命が失われたと聞いた訳ですが、ニワトリが死んだことよりも、被害額の方が気になってしまった私です。
 人間とニワトリでは話が違うから当たり前のことだと言われるかもしれません。しかし、本当にそれは当たり前なのでしょうか。どんな命でも等しく尊いものだということを、私は常々聞いてきました。しかし、理屈でそれを分かっていても、養鶏場のニワトリの死にはどうしても心が動かされません。そういう自分を当たり前として居直ってしまうならば、行き着くところ、自分以外の命は自分の感覚次第で軽く扱うのも当然だということになってしまいます。それは何とも恐ろしいことです。


絆                           (2012年5月)

 震災以降、よく「絆の回復」ということが言われてきました。この言葉も、近頃では随分と乱雑に使われています。単なる東北地方への観光ツアーを「絆ツアー」と銘打ったり、デパートやスーパーのイベントからお酒の名前に至るまで、そこかしこで「絆」の文字が躍っています。私自身も「絆」という言葉を得て勝手に使ってきたところがあるように思いますし、このあたりでもう一度その言葉の示すものを確認しておかなければと感じています。
 「絆」という言葉は、もともとは「動物をつなぎとめる綱」であり、何かを縛り付ける意味のものなのだそうです。この言葉の本来の意味は、私たちにとても大切なことを教えてくれているように思います。私たちは「つながり」の中に生きている存在ですが、それを自分にとって都合の良い範囲にだけ求めています。しかし、その思惑とは別に、私たちのつながりは無限大に広がっていますし、必ずしも心地の良いつながりばかりではありません。だからといってそこから逃げ出すわけにもいかない、まさに「絆(縛り付けるもの)」と呼べるものです。
 昨今はどこも町内会の運営がしづらいということをお聞きします。そこに住むのが一代限りで、子供も他所で独立していると、地域を守り残そうという意識が持ちづらく、煩わしさだけを感じることもあるそうです。といっても、自分が今ここにいられるのはこれまでこの地域を支えてきて下さった人たちのおかげですし、子供が住むところにしても同じことです。そうしてみると、「絆」は私たちの力で回復するようなものではなく、ここにあることを思い出すべきものなのではないかと思われます。


天秤にはかけられないもの                (2012年4月)

 原発再稼働の動きが加速してきました。政府は、原発を必要とする理由として、電力不足は病気の人、高齢者、中小企業などの社会的弱者にしわ寄せが来るからだということを言い始めています。しかし、現実を見れば、福島の事故で避難区域に最後まで取り残されたのは老人介護施設の人々や入院患者でした。命を削って事故の収束に当たっていて下さるのは東電の下請け、孫請け企業の方々です。どうにもこの説明には矛盾を感じます。
 これまで私たちは、事あるごとに「命より大切なものはない」ということを言ってきたのでないでしょうか。ところが、命が根絶やしになる危険性を持つものを前にして、またそれが現実になった姿を目の当たりにしながら、いま私たちは、経済的な理由や生活の快適さと原発とを天秤にかけて判断しようとしています。結局、どれだけ命の尊さを叫んできても、その「いのち」そのものがどういうものなのかを見失っていたために、平気でこういう矛盾をしてしまうのだと思います。
 命を大切にするということは、今生きる人が楽しく快適に生きればそれで良いということではありません。私たちは過去と未来の命の間に生かされている身です。過去から頂いた世界を汚し、未来へ受け渡す世界を狭めておいて、命の尊さなどと言っている自分が恥ずかしく思えてきます。


他人事のままに・・・                  (2012年3月)

 東日本大震災から一年を迎えます。この一年間は、何かにつけて、震災のこと、被災者のことが頭から離れませんでした。と同時に、自分自身の他人に対する冷たさを思い知らされる日々でもありました。
 「何かしなければ」「これでいいのだろうか」という焦りを感じながらも、自分から行動を起こすことはしてきませんでした。義援金や、こちらで出来る簡単なお手伝いをさせてもらっても、「自分の出来る範囲で」と自分自身に言い訳をして、今のままの自分の生活は頑なに守ろうとしてきました。あれだけの惨事を目の当たりにしても、自分のすべてを投げ出すことは出来ないのが私なのだと思うと恥ずかしいのですが、そういう自分に開き直って生きているのが実際の今の私です。
 テレビや新聞で報道されることはないのですが、被災地の一人の若者の正直な気持ちを耳にすることがありました。彼は「義援金を送ってくれたり、ボランティアに来てくれたりして、一緒に頑張ろうと励ましてくれるのだけど、あなた達は帰れば家も仕事もあるのだろうと思ってしまう。」と言っていました。この率直な言葉には返す言葉もみつかりません。どこまで行っても他人事としてしか関われないでいる私が、被災者の方たちと共にどのように生きていくことができるのか、考えさせられる日々が続いています。


敵討の気持ち                      (2012年2月)

 十三年前に起こった山口県光市の母子殺害事件で、被告である元少年の死刑が確定することになりました。私としては死刑制度自体には疑問を感じているのですが、この事件の被告が死刑になると聞いた時には、すっきりした気持ちになったというのが正直なところです。そんな感情になった自分自身に驚いています。
 以前はそうでなかったのですが、自分に子供が出来てみると感覚も変わってくるようです。被告が、母親の遺体に泣きながら這い寄って来る子供を絞殺したというようなことを聞くと、激しい怒りを覚えて、敵討ちをしないでおれない気持ちが駆り立てられてきます。そういう意味では、私自身が事件を感情的に捉えてしまって、しっかりと向きあうことが出来なくなっているのです。これが当事者の方だったらと思うと、死刑を望むのも当然のことだと思います。
 だからこそ、冷静に判断できる第三者が、本当に敵討ちをするべきなのか、遺族が被告の命を奪いたいという感情をそのまま満たさせるのが本当に良いことなのか、被告という一人の人間を殺すことになるのですから、そのことをしっかり考えなければいけないと思います。判決が下った後、「死刑判決に勝者はない」と言われた被害者の夫の言葉が心に響いてきます。


クレーマー                       (2012年1月)

 方々にお参りさせて頂いておりますと、いろいろな職業に携わっておられる方々からお話を聞かせて頂く事が出来ます。それぞれの職にはそれぞれの御苦労がある事だなあと感じさせられるのですが、中でも、人との関わりにおける御苦労が一番大変なことに思わされ、私自身のあり方も反省させられることが多いです。
 近頃では「クレーマー」という言葉が聞かれますが、無茶な要求をして来る相手に悩まされておられる方も少なくないようです。もちろん、やってもらっているのだから黙って従えというのもおかしいと思いますし、意見や質問を頂いてお互いに話し合うことは双方にとって貴重な経験になると思います。しかし、相手も自分と同じ一人の人間であるということを見失って、自分はお金を払った客なのだから思い通りにしろという接し方をしてしまうようでは、その当人にとっても寂しいことだと思います。
 色々なことが効率化されて、つながりが見えにくい世の中になっていますから、お金を払ったものにはそれ相当の権利があるのだと錯覚してしまいがちです。しかし、当たり前のことですが、お金そのものに人間が生きていくための力があるわけではありません。あくまでも、いただいた物、して頂いた事に対する感謝をあらわす一つの形として、今の私たちはお金という手段を用いているにすぎないのだということを忘れないようにしなければと思わされます。

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