日々雑感2014


私たちの社会の価値観                 (2014年12月)

 二年前のちょうどこの時期、東日本大震災以降初めての国政選挙が行われました。あれから何が変わり、何が変わらなかったのでしょうか。色々と思い返されているこの頃です。今年も、十二月十四日に衆議院議員選挙が行われます。この文章を書いている時点ではどんな結果になるのか分かりませんが、大勢に変わりはないだろうというのがもっぱらの予想です。そう言われると投票する意欲が湧き辛いのですが、ただ、どのような結果が出ようとも、それはあくまでも私たちの社会が選択したことです。「自分はあの政党に投票していないから」と言って責任を逃れられるものではないのだということだけは、肝に銘じておかなければいけないと思っています。
 ところで、「私たちの社会」と言ったとき、今の社会の価値観を象徴しているように感じられる出来事が、今年の初夏ごろありました。それは、福島第一原発の事故で出た汚染土壌などを保管する中間貯蔵施設の建設計画をめぐって、当時の環境相が「最後は金目でしょ」と発言されたことです。確かにこの言葉は反発を呼びましたが、一面、今の社会の現実を思い知らされるものに感じました。原発を抱える他地域の首長選挙では、原発推進派の候補者が次々と当選している現実があり、住民の中には、「原発のおかげで街が潤って有難いことです」とおっしゃられる方も実際にあります。そうしたことも手伝ってか、近頃は福島の方たちに対する厳しい声も聞かれるようになってきました。「これまでたくさんの財政補助を受けておきながら、いざ事が起こると、そこで後始末するのを拒否するというのはけしからん」という声を、先日もお聞きしたところです。
 さて、そこで考えなければいけないのは、莫大なお金をもらえれば、自分の家の隣に原発が建つことを私だったら喜ぶだろうかということです。やはり大部分の方が抵抗を感じるのでないでしょうか。そう考えると、原発立地地区の住民が、町が潤って嬉しいと言われるのには、そう言わなければやりきれないという現実があるのではないかとも思われます。そうであるならば、一部の限られた人たちに、命よりも「金目」に価値を見出させてしまうような社会を作り出している私たちは、とんでもなく申し訳ない事をしてしまっているのでないでしょうか。


報恩講                       (2014年11月)

 早いもので、今年ももうあと2ケ月を残すばかりです。本年も、今月中旬から年末まで「お仏事」にお参りさせていただきます。これは、各家庭でお勤めする「報恩講」です。「報恩講」というのは親鸞聖人の祥月命日のお勤めですが、私たち真宗門徒の先輩方は、この法要を最も大切にしてこられました。実際には、現在の皆さんの家庭では、血縁の方の年忌法要の方が大きく営まれていることとは思いますが、それでも、今でもお内仏のお飾りは、お仏事の時だけは両花瓶・両燭台の一番重い型が用いられているはずです。
 自分の身内でもないのに、なぜ親鸞聖人のご命日がそんなに大切にされてきたのだろうかと不思議に思われるかもしれません。私たちの通常の感覚では、いくら自分の所属する宗派を開かれた方とはいえ、自分のご先祖様の命日よりも大切だとはなかなか思えません。しかし、浄土真宗という一宗派の教祖の命日だから重要に扱わなくてはいけないという見方をしてしまっては、先人たちの心は正しく受け止められないと思います。
 私たちは、親鸞聖人のことを「宗祖」とお呼びしています。これは、「私が生きていくうえでムネ(肝心要)となるものを示してくださるご先祖様」という意味の言葉です。血の繋がりはなくとも、本当に大切なものを残して下さった方は、やはり大切なご先祖様です。


ノーベル平和賞                    (2014年10月)

 今月発表されたノーベル平和賞に、「憲法九条」がノミネートされて注目を集めました。この賞の受賞の対象が個人か団体になるために、「九条を保持してきた日本国民」が対象とされたようですが、今では集団的自衛権の行使さえ容認しようとしている私たちが、本当にそんな賞をもらう資格があるのだろうかと考えさせられてしまいました。
 平和を願うのは日本人ばかりではありません。近ごろ各地でテロをくりかえしているイスラム国の人たちでさえ、自分たちの理想とする平和な社会が実現する事を信じてテロ行為を繰り返しているのであって、平和を願うという点においては私たちと違いはないのでないでしょうか。これほど誰もが平和を願っていながら、なぜ世の中から争いが無くなることなく、時には平和のために戦争をするという矛盾が行われてしまうのでしょう。
 親鸞聖人は、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と願って念仏しなければならないとおっしゃられました。問題なのは、この「世のなか」を私たちがどう捉えているかです。私たちが平和を願う「世のなか」は、どこまで対象が広がっても、自分の家族、自分の国、自分の国の同盟国と、しょせん「自分を中心とした一定の範囲」に過ぎません。そんな私たちに仏さまは、本当は「世のなか」に範囲など無いのだと教えて下さっています。今こそ耳を傾けなければいけない教えです。


理性では抑えられないもの               (2014年9月)

 広島で起こった土砂災害の直後、避難者宅を狙った空き巣が相次いだということです。他国では、大きな災害が起こると、その混乱に乗じて略奪や暴動の起こることも少なくないと聞いていますので、それに比べれば小さなことなのかもしれません。とはいえ、やはり寂しい思いがします。
 辛い思いをしておられる方に対して、その弱みに付け込んでまで利益を得て、自分の心が平気でいられるものなのだろうかと考えてしまいます。けれども、逆に言えば、こうした行為に及ぶ人というのは、そんなことすら気にならないほど、物質的にも精神的にも切羽詰まった状態だということなのかもしれません。目の前に生きていくための糧が転がっていれば、それに貪りつくのは動物としての本能でしょう。そこで他者を思いやってそれを踏みとどまれるというのは、よほど自分に余裕があってのことなのだろうと思います。
 自覚がないだけで私自身も、場合によっては、より弱いものに付け込んで身を立てようとしてしまっているのかもしれません。ただ、少なくとも、それに気づかされれば、そんな自分を心苦しくは感じます。自分が不利になるのに、手を出せない、奪い合うことをしないのは「平和ボケ」だと指摘されることもありますが、それならば、私はボケたままに人生を終わりたいと、切実に願います。


平等を願わない私                   (2014年8月)

 今年の一月の国会で、首相は「格差と貧困を放置する人が、私も含めてこの会場に一人としているはずがない」と言っておられたそうです。政治家に限らず、私たちの誰もが「自分は、全ての人が豊かで平等な世の中を願っている」と思っているのではないでしょうか。私自身も、当然そういう願いをもって生きていると自負していました。
 ところが、近頃の報道で実際に社会に多くの貧困世帯があるという事実を耳にしても、これといって何かしようとはしていません。本当に心から平等を願っているのなら、いてもたってもいられずに財産を投げ出していて然るべきなのですが、ある程度の生活水準は維持したいという気持ちが強くて、私の持っている微々たる財産ですら、他人に分けることを躊躇してしまっています。これで本当に、自分は平等で豊かな社会を願っていると言えるのか、自信が持てなくなってきました。
 自分は平等を願っていると確信している時には、実際にそれがうまくいかなくても、社会の仕組みが間違っているからいけないのだと決めつけて、自分の心を疑ってみることはありませんでした。だからこそ、心からは平等を願えない自分というのを自覚することから始めて、そういう自分の尻を叩いて平等に向かわせる社会の仕組みを生み出していく必要があるのでないかと思うのです。


少子化                        (2014年7月)

 少子化問題ということが言われて久しいですが、ふと、少子化の何が「問題」なのだろうかと考えることがありました。確かに子供の数は少なくなっています。けれども、そもそもが狭い土地にたくさんの人が暮らしすぎだと言われてきたこの国です。そこで人口が減ることが、そんなに問題なのでしょうか。結局、少子化の何を問題視しているのかといえば、大人の数とバランスが取れないということでないかと思います。これは大人の都合です。私たちが、子供に負担をかけるのは申し訳ないから、自分の老後は我慢をして過ごそうというならば、少子化といっても、それは「現象」であって、「問題」にはならないはずです。
 このように、自分の都合で物事を「問題」にしてしまっていながら、そ れに自分で気づいていないのが私たちです。先日、東京都議会で、独身の女性議員に対して「早く結婚しろ」「産めないのか」というヤジが飛んだそうです。大変な差別問題をはらんだ出来事ですが、この発言の根にも、そうした、「他人を自分の都合でしか見ていない私」ということがあるのでないかと思います。自分の老後を支えてくれるから子供は大切だ、自分の世話をしてくれるからパートナーは必要だ、というふうにしか人のことが見られなければ、人に対して尊さや敬いの心が持てるはずもありません。


本当の豊かさ                     (2014年6月)

 福井地裁で、原発の運転差し止めを命じる判決が出ました。これまで、政府の方針に反することになるかもしれない、原発の是非にまで踏み込んだ判決はありませんでしたので、今回も、うやむやに終わるだろうとばかり思っていました。まさかこれほど明確な判断が出るとは、良い意味で驚きです。
 判決の中で裁判長が述べた、「たとえ原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではない。豊かな国土とそこに国民が根を下して生活していることが国富で、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失となる。」という言葉には、深くうなずかされ、感動すら覚えました。といっても、ただ感動しているだけではいけません。これから何を「富」として 生きていくのか、そのことが自分自身に厳しく問われている言葉でもあります。
 本当の豊かさというのは、ものを多く持つことではないのでしょう。私に先立って生きていかれた数えきれない命が、こうして伝え残して下さった世界を感謝して受け取ることのできる心、そして、それを次の世代に確かに手渡していく責任を感じられる心、その心が、私たちの生き方に豊かさを生み出すのではないかと思います。目先の欲望に惑わされて、本当の豊かさを感じられないまま過ごしていたことに気づかされる判決でした。


バネ指                        (2014年5月)

 ここ三カ月ほど、小指に金属のプレートを当てて過ごしてきました。結構目立ちますので、お参りに伺った際にも、よく「どうしたの?」とお声をかけて頂きました。実は、年明けに、慣れない庭仕事に精を出したためでしょうか、小指を一度曲げると簡単に伸ばせなくなってしまいました。お医者さんで診て頂くと、「バネ指」と診断されたため、関節を曲げ伸ばししないで指を休ませるために、金属のプレートを当てて固定していたのです。
 小指一本のことですので、大した影響もないだろうと考えていたのですが、手全体に力が入らなくて、案外苦労することがありました。改めて、普段気にも留めないでいるものが、実は大切な役割を果たしていてくれたことを思い知らされました。それに加えて、長く症状が続く間に、さまざまな事情で小指の使えない人、小指の無い人のご苦労というものも実感させられてきました。
 この指の症状を皆さんに説明するとき、私は当然元通りになるものだというつもりでお話してきました。小指というのは、大多数の人が問題無く使えるものであるために、それが本来の姿だと何の疑いもなく思っていたのです。しかし、多くの人がそうだからといってそれが「あたりまえ」なわけではありません。実際そうでない方もいらっしゃいます。そう思うと、ずいぶん無神経なもの言いをしてきたことだと今は恥ずかしく感じています。


消費税増税                      (2014年4月)

いよいよ今月から消費税率が3%上がります。実際に生活をしてみないと、その負担が多いのか少ないのかは分かりませんが、百万円を自由に使える人にとっての三万円と、一万円でどうにか遣り繰りしなければならない人の三百円では、その重みが違うことと思います。
 某石油会社のCMで、「ナイル川が130q延長しても2%増量にしかならない。元が大きいと結構な量でも小さく見える」ということを言っていました。実際にナイル川が130qも伸びたとしたら、沿岸に住む人たちへの影響は測り知れません。大地震や大津波を引き起こして、数えきれない動植物の命を奪っていくことでしょう。大きな視点では大したことなく感じる事が、小さなところでは切実な問題になっているというこ とです。考えてみると、世の中にはそんなことが溢れています。
 今回の消費税率の引き上げなどもそうですが、自分が小さい側にいると随分と不満を感じるものです。ところが、ひとたび大きい側に立つことになると、とたんに小さな側の一つ一つに無頓着になってしまいます。自分には大した影響がないからと、弱い立場にあるものに無関心でいるうちに、気づいたら自分がその小さな側になっているということもよくある話です。自分が弱い立場になったところでようやく抗議の声を上げたとしても、それでは誰も見向きもしてくれないだろうと思います。


「自信がある」ということ               (2014年3月)

 先月初めに東京都知事選が行われました。今回の選挙で二十代の若者から強い支持を受けたのが、過激な排外的持論を主張している候補者でした。経済格差に苦しむ若者が、近頃では国までもが近隣諸国からコケにされているように感じて、その鬱憤のはけ口を、この候補者の主張の中に見出したのだろうといわれています。
 人間というのは、自分で思っているほど強いものではないのだと思います。弱い立場に置かれると、弱い立場の人の気持ちが分かるようになって思いやりの心が増すのかといえば、そううまくもいきません。自分に自信がなくなると、自分より弱い立場の人を作り出して自分を慰めようとするのが、私たちの繰り返してきた歴史の現実です。国内で弱い立場にあるのだから、せめてよその国の人に対しては、強い国の国民としてありたいという願望が選挙結果に表われたようです。
 それでは、経済格差がなくなれば私たちは自分のことも他人のことも認めることができるようになるのでしょうか。そんなに甘くはありません。そうなれば、ほかのところで格差を見つけて優劣をつけたくなるのが私たちです。自分自身の尊さ、人間ひとりひとりの尊さを、他との比較の中にしか見いだせないでいることが、自分自身に揺るぎない自信を持てない一番の原因なのでしょう。


バレンタインデー                   (2014年2月)

 私にはあまり縁のないイベントですが、二月十四日はバレンタインデーです。日本では、女性が意中の男性にチョコレートを渡すという習慣が定着していますが、そのチョコレートを目の前で食べてもらうと効果が高いそうです。チョコに含まれる成分が感情を昂ぶらせるため、そのドキドキを恋愛の感情と勘違いさせる効果があるのだということです。一緒にピンチを乗り越えた男女は恋人になりやすいということも言われますが、これもピンチの時にドキドキしたのを、相手に対してドキドキしたのと脳が錯覚するからだそうです。そんなことを聞くと、私たちの感情というのも案外と適当なものなのだなと思わされます。
 私たちは、自分の感情なのだから自分でよく分かっていると思い込んでいますが、外からの刺激で簡単にコントロールされてしまうものだということを自覚しておかなければ、大変なことになりかねません。地球が温暖化していると世の中で叫ばれると、不安になって、二酸化炭素を出さない原発が次々と作られるのを容認してきました。また、隣国が日本の領土にちょっかいを出しているといわれると、腹立ちを覚えて、自分たちも対抗できる軍隊を持たなければという思いにさせられます。それらは本当に、私自身が起こした感情なのでしょうか。考えてみる余地がありそうです。


物をいわぬ者は、おそろしき              (2014年1月)

 大変な世の中になってきました。政権が代わってある程度は予想できたものの、たった一年で、これほど急激に、戦争を身近に感じる国に変わってしまうと、何か落ち着かない気持ちがします。
 昨年末に公布された「特定秘密保護法」も、どこか不気味さを感じる法律です。権力者に都合の悪いことは、みんな秘密ということにされてしまうのではないかという懸念の声もあります。しかし、もし本当に厳格に適用されて、私たちの命に関わる事柄だけが秘密にされたとしても、事の本質は解消されません。「秘密」というのは、何が秘密なのかが分からないからこそ「秘密」なのです。うっかり秘密にされている部分に触れるようなことを言ってしまったら、何がいけなかったのかも分からないままに処罰されるかもしれないというのが、この法律の一番不気味なところです。
 さて、そうなると私たちは、当然、下手なことを言わないでおこうと自主規制をするようになるのではないでしょうか。言いたいことを「言えない」のではなく、「言わない」世の中になるのが、実はこの法律の抱える本当の問題なのではないかと思います。私たちがものを言えるのは、もし間違っていたとしても、相手がそれを正してくれるだろうという信頼があるからです。ものを言わない、不信感に溢れた社会というのは、何とも不気味なものです。

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