日々雑感2015


活躍してますか?                (2015年12月)

 先日発表された流行語大賞で、「一億総活躍社会」という言葉がベストテンに選ばれました。この言葉が「流行った」と言われると少し疑問ではありますが、確かによく聞かれるようになった言葉ではあります。そんなことで、しょっちゅうこの言葉を目にさせられているうちに、ふと、「活躍」するというのはどういうことなのかということが考えさせられてきました。
 「活躍」という言葉は、「めざましく活動する」という意味のほか、「そのもののためになる」という意味でも用いられています。私たちの通常の感覚では、どんなに積極的に活動していても、それが本を読んだりゲームをしたりという個人的な事柄であっては、なかなか活躍しているとはみとめられません。やはり、「役に立つ」ことをすることこそが「活躍」だという意識があるのだと思います。そうなると、「誰の」ため、「何の」ため、「どう」役に立つのかということが問題になります。
 今から二十年ほど前、東海村の原子力施設で臨界事故があったとき、東大教授の方が、「原発を一地域にまとめて、生産・生殖能力の低い高齢者をその周りに住まわせ、そこを老人たちのパラダイスにすればよい」と提言されていました。確かにそれは国家や若者の役に立つことかもしれませんが、それによって高齢者の方が「活躍」しているとはとても思えません。「活躍」という言葉でもって一部の人に犠牲を強いるようなことにならないよう、この先も注意していかなければと思わされます。


みんなと一緒                  (2015年11月)

 「近ごろ物忘れがひどくなって…」という言葉をしばしばお聞きします。毎月やっていることなのに、お勤めの前のお給仕で、ロウソクをつけ忘れたり、線香をあげ忘れたりということはよくあることです。私自身も人のことは言えませんので、「みんなそんなものですよ」とお答えすると、「自分だけじゃなくてホッとしました」と言われることが多いです。
 物忘れに限らず、私たちは、「みんなも一緒」だと聞くと、なぜか安心するというところがあるようです。病気を患った時などでも、他の方が「私もそれを患っているよ」と言われると、自分の病気がよくなるわけでもないのに、少し心が軽くなることがあるのは不思議なものです。もちろん、自分のことは、決して他人に代わってもらうことのできない、自分一人で引き受けていくしかないことには違いないのですが、同じ境遇にある人を思うだけで、私たちはそれを背負って生きていくことができるようになるものなのだということでしょう。
 そういう、私たちが「みんな一緒」であることの究極のところは、すべての命は、生まれ、生き、死んでいくものだということです。生活していくうえでは、それぞれに辛く苦しいこともありますし、老い、病み、死んでいくのは寂しくも恐ろしくもあることです。けれども、誰もがみな、もれなくそういう人生を生き抜いているのだと思うと、何か心強くも感じられます。現代は個人主義の時代と言われますが、そういう「みんなと一緒」の部分までも見失いたくはないものです。


真似する智慧                   (2015年10月)

 以前から絵を描くのが好きだった息子が、このごろ随分と整った絵を描くようになってきました。絵本などで見た表現の仕方をどんどん自分の中に取り入れて真似しているようで、こうやって人間は成長していくのだなと驚かされます。
 ところで、先月東京五輪のエンブレムを巡って盗作騒動がありました。今回のような事柄は、経済的な思惑が絡むので、なかなか一筋縄ではいかないようです。とはいえ、そもそも人間がゼロからものを生み出すなどというのは不可能なことで、自分のオリジナルだと思っているものも、何かしら先人のはたらきから知恵を頂いているものだとお聞きします。つまり、私たちは自分の知恵で生み出したもので今を生きている気になりがちであるけれども、実は、模倣の積み重ねこそが「歴史」の事実だということです。そう考えると、アルファベットを作った先人の仕事をそっちのけにして、それをデザイン化した者同士が権利を主張し合うのもおかしなものです。
 さて、「歴史」というのが真似の積み重ねであるということは、「歴史」は、ご先祖様たちが、先人の何を真似したらどうなるのかを明らかにしてくださったものだともいえるわけです。その歴史の繰り返しを見たとき、「それを真似しても、自分だけはそうはならない」という考えが、いかに傲慢なものであるかが思い知らされます。ですから、今の世の中が戦前の真似になっている部分が多いと経験者からお聞きするたび、その結果を知っている私たちは不安に襲われるのです。


積極的平和                     (2015年9月)

 近ごろ政治の話でよく聞かれる「積極的平和」という言葉を提唱した学者が、日本で講演会を開かれたそうです。本来この言葉の意味は、単に戦争のない状況というだけでなく、貧困や差別のない社会状況を表すものだということです。つまり、一部の人たちだけの見せかけの平穏ではなく、文字通りすべての人が「平たく和する」ことが願われている言葉だということなのでしょう。
 今の日本の政治が目指しているものも、確かに貧困や差別をなくそうということには違いないのだろうと思います。経済競争に打ち勝って国民を豊かにし、他民族を牽制してわが民族の自尊心を侵させまいという努力が、「積極的平和主義」という形で示されています。ただ、その平和が及ぶ範囲は、あくまでも自分の民族、国内にとどまって、身内に積極的平和を実現するためには、よその人たちとは戦争をすることも辞さないという、何とも混乱した姿になってしまっているようです。
 私たち浄土真宗の門徒は、いつも「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」と称えてきました。これは、「大切な命を秤にかけることはできない」「自分の裁量で大事な命の範囲を定めることはできない」という真実を、生きる立場にするという宣言です。自分を取り巻く一部ではなく、あらゆる人が「平たく和する」ことを願っているのです。


平和を願うということ                (2015年8月)

 戦後七十年の終戦記念日がやってきました。いま世のなかでは、憲法違反も指摘される安全保障関連法案が衆議院を通過して、それに対する抗議の声がますます大きくなっています。本当に多くの方々がそれぞれの立場から声をあげておられるので、「戦争をしない・させない」という根本的な思いは同じであっても、その表現の仕方は多種多様に見られます。
 そうした中で、少し気になる抗議行動もあります。それは、首相個人の名前を呼び捨てで呼んで、「ヤメロ」と連呼したり、プラカードを掲げたりするやりかたです。先日の調査で内閣支持率が四割を切ったと報道されていましたが、裏を返せば、それでも四割弱の人たちが現政権を支持しているということです。そういう人たちにとって、このような物言いはどう感じられるでしょうか。やはりカチンとくるのではないかと思います。
 そもそも今の政権を昨年末の選挙で選んだのは私たちの社会です。自分はそこに投票しなかったとしても、この社会の一員であるという責任は免れません。どんな理由であれ人を殺すのは悪いことですから、少しでも自分がその罪を犯してしまうリスクを下げるために、自分自身で自分を縛る厳しい規則が必要だということを、社会全体で確かめていくことが今の私たちの責任です。そのためには、たとえ抗議のためとはいえ、それで敵対関係が生まれるようなことでは本末転倒でないでしょうか。本当に平和を願う心からは、どんな戦いであっても起こりえないはずだと思います。


雨ふりの日                     (2015年7月)

 いよいよ本格的な暑さがやってくる時期になりました。梅雨の間は一雨ごとに草木が伸びて、庭の手入れもなかなか追いつきませんでしたが、今度は炎天下での草むしりが待っています。それでも、日本には四季があって、ほっと一息つける季節もあるのですから、それは有り難いことだと思います。
 さて、お釈迦さまの活躍されたインドには、日本のような四季はなく、主に雨季と乾季の二つの時期があるだけです。お釈迦さまというのは、基本的にはインド各地を歩き回って各地で教えを説いておられたのですが、雨季の時だけは一カ所にとどまって、外を出歩かれることはされなかったといわれています。この時期を「安居」といって、お弟子方がお釈迦さまと共に教えをじっくりと確かめ直す期間になっていました。雨のなか外を出歩かないのは、足元が悪いということもありますが、何より、この時期に芽吹く草花や、活動が活発になる小さな虫や動物といった、たくさんの命を踏みつけることのないようにという意図があったのだということです。
 先日までは私も同じように、命の芽吹く梅雨の時期を過ごしてきましたが、踏みつけにした命のことなど考えることもありませんでした。命を踏みつけずには生きられない自分でありながら、それを恥ずかしくも申し訳なくも思わずに、「命は尊い」としたり顔でいっているのですから、情けない限りです。少しでも命を傷つけることなく生きていきたいと願える出発点は、そんな自分を思い知る所にしかないのではないかと思います。


白寿                        (2015年6月)

 よく、お参りの折に祖母のことをお尋ねいただくことがあります。おかげさまで、特別患っているところもなく、この連休には親族が集まって白寿のお祝いをさせて頂くことができました。一世紀近くを生きるということは私には想像もつかないことですが、長年一緒に暮らしてくると、何をしてくれるわけでなくとも、ただもうそこにそうして居てくれるだけで、何か心強いものが感じられます。そういう祖母の姿が、人間が人間であることの尊さとはどういうものか、その最も根本的な所を教えてくれているように思えます。
 お釈迦さまは、誕生された直後に、「天上天下唯我独尊」と言われたと伝えられています。この言葉は、「私達は、それぞれが誰とも変わることのできない一人として尊いものなのだ」と教えてくださっているのだと言われています。この教えの通り、本当は、祖母のような長寿で健康な人間だからというだけでなく、年齢や性別、能力に関わらず、「その人がその人として居てくれるだけで嬉しい」とお互いに思い合えるのが人間の尊さなのでしょう。けれども、自分の都合が絡んで、なかなかそうは受け止められないでいるのが実際です。
 施設でお世話して頂ければ、たとえ寝たきりであっても、生きていてくれるだけで心の支えになってくれているということもある一方、体は元気でも、手間がかかると感じれば厄介者扱いをしてしまうこともある、そういう現実の中で、私たちはどう尊び合うことができるのか、考えさせられます。


大人の責任                     (2015年5月)

 近頃、お寺の駐車場で放課後の小学生たちが遊んでいる声が聞こえてきます。外から子どもの声が聞こえなくなったと言われて久しい昨今、喜ぶべきことなのでしょうが、正直なところ、ボールなどが飛び込んできて、境内や庭を壊しはしないかと心配にもなります。とはいえ、最近では公園でさえ自由にボール遊びができないこともあると聞きますので、他所でやるようにとも言えません。
 先日、子どもが引き起こした事故の賠償をめぐって、親がどれだけ監督責任を負うのかの新たな司法判断が示され、親の賠償が免責されました。こうした事柄は、被害者も加害者も双方の思いがありますので、それを考えると難しい問題であると思います。ただ、子どもや高齢者によって引き起こされた不慮の事故を、すべてその家族だけの責任として押し付けるようでは何かいびつな社会に思えます。その意味ではよくよく考えられた判決だったと思います。
 考えてみると、今の私たち大人は、責任におびえ、賠償をおそれ、どれだけ子供がのびのびと遊べる場所を奪ってきたことだろうかと思います。「車通りが多いから危ない」、「人に当たるといけない」、と言うともっともらしく聞こえますが、そう言う私の心にあるのは「大人の都合」です。子どもがゲームばかりしていることを批判する前に、私たち大人にも考えることがあるようです。


怒りと報復の心                    (2015年3月)

 裁判員裁判で死刑とされた判決が重すぎるとして、最高裁が判決を破棄する事例が何件か続きました。一般人が刑を判断する裁判員裁判では、被害者の感情に自分を同化させる人が多いため、刑が重くなりがちだということを耳にしたことがあります。ただ、ここで死刑が選ばれがちなのは、単に一番重い刑であるからというだけではなく、酷いことをした者は命でもって償うべきだという価値観を、私たちの多くが共有しているということも大きいのでないかと思います。
 ところで、ご存知のように、私たちの宗派は死刑が執行されるたびに抗議声明を発表しています。これに対して、「宗教というのは人々の気持ちに寄り添うものであるべきなのに、被害者感情をないがしろにしているのではないか」という声が聞かれることもあります。私自身、もし自分が当事者ならば、当然相手を死刑にしなければ収まらないであろうと思います。しかし、仏教では、そういう私たちの気持ちを、怒りにまかせた報復感情であると見抜いて下さっているのです。
 近頃問題になっているイスラム原理主義の行動も、特異なものに見えますが、根は単純なことで、怒りと報復の感情を宗教によって正当化しているのです。怒りを助長させるものと、怒りを肯定しないもの、本物の宗教はどこにあるのでしょうか。


宗教と自由                      (2015年2月)

 世界中で、宗教が原因の悲しい対立が続いています。ただ、ニュースとしては目にするものの、「自分の宗教」というものに比較的淡白な私たち日本人には、いまいち理解しきれないところもあるのでないでしょうか。もともと「家の宗教」という意識はあっても、「自分の信仰」を持つ人が少なかったところに、今では「家」という感覚すらあやふやになってきたため、私たちが宗教に関わる機会自体が激減しています。そのためか、近頃は、「親鸞聖人や仏教の思想には興味があるけれど、宗教はちょっと…」という声もよく耳にします。
 実際、現在の日本では、日常生活で自分の信仰を話題にする人に出会うことはめったにありませんし、そういう人と関わることには腰が引けてしまう方も多いのではないでしょうか。特に私の世代などは、二十年前のオウム真理教による地下鉄サリン事件の印象が強烈で、宗教と聞くと、即座に怪しいものとして敬遠してしまう傾向が強いように感じます。それが、信仰を持つ人を変な目で見てしまうことにつながることもあり、これは考えなければいけない問題です。
 宗教というのは、生き方を縛り付けるようなイメージもありますが、本来は、人間が自由にのびのび生きられるために表われてきたものです。宗教の表面的な形式にとらわれて不自由な生き方になってしまうのと同様に、自分の価値観にしがみついて信仰を持つ人の生き方を知ろうとしないのも、自由に生きているとはとても言えないように思います。


フランス新聞社襲撃テロ               (2015年1月)

 フランスでの新聞社襲撃テロを巡って、世界各国でさまざまな受け止め方がされてきました。テロ行為を非難する姿勢は共通するものの、フランスをはじめとしたヨーロッパ各国が風刺画を掲載した新聞社の姿勢を支持する一方で、イスラム教徒の感情を傷つける行為だとして、風刺画自体については疑問を呈する国も多くあったようです。
 フランスの人々には、宗教を笠に着た権力者によって生活を束縛されてきた歴史がありますので、自分たちの勝ち取った自由を守らなければいけないという強い思いがあるのでしょうし、人種差別問題と長く戦ってきているアメリカでは、「もしアメリカの大学新聞が同じような風刺画を載せたら三十秒も立たないうちに発刊停止になるだろう。学生や教授はこれをヘイトスピーチとみなし法的手段をとるに違いない」と書いた新聞もありました。人が侮辱と受け取りかねない表現をすることには慎重な人たちも、世界には大勢いるということです。
 表現の自由と他者の侮辱との線引きは、私たちの裁量では不可能なことですが、かといって指をくわえて見ていては、また悲しい事件が起こってしまいます。「自分より愛しいものはない。それは他人も同じことだ。だから自分を愛する者は他人を傷つけてはならない」と言われたお釈迦様のお言葉を、じっくり考えてみなければと思います。

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