日々雑感2016


ドナルド・トランプ氏              (2016年11月)

 次期アメリカ大統領にトランプ氏が選出され、驚きの隠せない自分があります。これまでのアメリカという国に対する私のイメージは、さまざまな個性を持つ人たちが、時には摩擦を起こし、悲しい事件を繰り返しながらも、そこを切り捨てるのではなく包み込んできた、世界にも類を見ない国というものでした。その国の人たちがこういう排他的な判断をしたということで、良くも悪くも特別な国であったアメリカが、他と変わらない普通の国になってしまったようで何か寂しい気持ちがしています。
 さて、それとは別に、この選挙戦で私はトランプ氏という人物に非常な嫌悪感を覚えました。それは、 自分がアジア人という、排斥される側にいるからだろうと思っていたのですが、どうも本当の理由はそうではないようです。冷静になってトランプ氏の主張をみてみると、正直、他人事として批判しきれないところが私にはあるのです。口では様々な人を受け入れることが大切だと言いながら、たとえば近隣で外国人労働者の方を見かけると、治安への不安から、どこかよその地域で働いてくれるといいのになと思ってしまうことがあります。また、日本も決して景気が良いわけでないのだから、日本の仕事は日本人がした方がいいのではないかと考えたりもします。
 自分はそんな排他的な考えを持っている人間ではないと思い込んでいたのですが、トランプ氏の発言を聞いていると、自分の中にあるトランプ的要素(差別心)を否応なしに思い知らされます。実はトランプ氏に対する嫌悪感は、彼が鏡となって自分の醜い部分が見せられてしまうことへの不快感、つまり同族嫌悪だったのだと気づかされます。


生きることの意味                 (2016年10月)

 「自分は何のために生きているのだろう」と考えることはありますか?家族のため、会社のため、世の中のため、色々と理由をあげてみるのですが、それが必ずしも自分である必要があるのかと考えると、自信が持てなくなってしまいます。自分が何かのためになっていると思えることは、自尊心を満たしてくれることですから、何の疑いもなく、当たり前のようにそれを追求している私たちですが、そもそも私たちが生きるということは、何かの「ため」なのでしょうか。
 昨年末、大手広告代理店の新入社員の女性が、過労を苦に自殺するという悲しい出来事がありました。この方の遺された、「生きるために働いているのか、働くために生きているのか」という言葉が、とても印象に残っています。おそらく、「自分は働くために生きている」と納得することができたのならば、このような言葉を遺されることはなかったでしょう。満足できない労働環境であるからこそ気づかれたことなのかもしれませんが、自分は何かのために生きているのではない、生きている自分が無条件に尊いことなのだと感じるところがどこかにありながら、それをそのまま受け入れて生きられない現実の自分への苦悩があふれ出ているようです。
 もうすぐ六か月になろうという私の子供を見ていると、ただもう生きることだけに真剣です。いつの間にか命を私物化し、意味づけして、頂いた命を生き尽くすという在り方を見失っている自分には、この子が何ともまぶしく映ります。


核を持つということ                (2016年9月)

 福島の事故以来、私は心情としては原発に反対です。ただ、もしも今後、放射性物質を無害化することが出来るほどに技術が発達し、火と同じくらい人間が使いこなせるようになったとしたら、それでも原発に反対し続けるだろうかと考えると、そうとは言い切れないところがこれまではありました。
 しかし、近ごろ目にしたニュースによって、それが根本的な考え違いであったことに気づかされました。核による悲惨な体験を抱えているこの日本が、国連での核兵器禁止条約の制定に反対の姿勢を示したということです。核の恐ろしさを訴えながら、一方で、米国の核の傘に守られている気になって、それを手放せないでいる私たち、「抑止力」と言って、「私を傷つけたら親兄弟まで滅ぼすぞ」 と周囲を脅して安心している私たち、この現実の姿に直面させられ、愕然としてしまいました。
 原発も、人間が核技術を利用することの一端です。どんなに平和利用を唱えても、その技術がある限り、それを自分の欲求のために使ってしまう私であることを正直に認めなければなりません。問題は、人間の技術力によってコントロールできるかどうかではなく、そういう私たちが、命を破壊するものを極力持たないようにするべきではないのかということです。そう考えたとき、まず大きな威力を持つ核を抑制していくことから始めようという気持ちで、私は原発に反対するのです。


相模原障害者施設殺傷事件             (2016年8月)

 知的障害者施設の入所者が次々と殺傷される痛ましい事件が起こりました。犯人は、障害者のことを、「保護者や施設職員に負担をかけ、不幸を作ることしかできない存在」だと決めつけて犯行に及んだようです。もちろん、この犯罪について同意できるところは一切ないのですが、この犯人の言葉には、私自身がドキッとさせられました。正直なところ、私にも、自分と同じ程度のことが出来ない人を「迷惑」と感じてしまう気持ちが少なからずあります。普段はそういう心と折り合いをつけて生活しているのですが、この犯人の言葉には、他人事でない、自分の中のドロドロしたものをえぐり出されたような気分になりました。
 この事件では、被害者の方の名前が報道されていません 。実名を出すことを躊躇させてしまうのが今の私たちの社会の現実です。先日発表された集計によると、胎児のダウン症などの可能性がある染色体異常を調べる出生前診断で、陽性だった人の九割以上が中絶を選んでいるそうです。高齢者のお話を伺っていると、「自分のことが自分でできなくなったらもうお終いだ。早くお暇がもらいたい。」という言葉もよく耳にします。自分の思う程度のことが出来ないものは、自他ともに迷惑な存在だと感じてしまう、そんな私たちの気持ちが少しずつ積み重なって、この生きづらい世の中を作り上げているのだとしたら、それは悲しいことです。


熊本地震                     (2016年5月)

 熊本での大地震で、多くの犠牲者の方が出られています。年を取って涙腺が緩んできたのか、被害の様子を報道で見ていると、いつの間にか目が潤んでいる自分に気がつきました。自分自身では、あまり感情の動きの少ない人間だと、自分のことを思ってきましたが、この震災でまず感じたのが「悲しさ」でした。「気の毒に」でもなく、「何かしなければ」でもないこの思いが、一体どこから湧いてくるのか、自分でも不思議に感じています。
 ところで、あの五年前の東日本の震災では、私は何を感じただろうかということが、いま改めて思い返されます。あの時感じたのは、衝撃と恐怖、そして被災者の方々の苦しみ悲しみに本当には寄り添うことの出来ない自分へのもどかしさであ ったように思います。なぜ被災者の心に寄り添えないのか、そのことを考えるうちに気づかされてきたのが、常日頃からのこの自分の在り方でした。
 実は、震災に関わらず、今この一瞬一瞬にも悩み苦しむ人がどこかにいるのが現実です。そのことを理屈では分かりながら、考えないようにして日々を過ごしていたのが自分でした。五年前に気づかされたそのことによって、他者の心に寄り添えない後ろめたさを感じながら生きてきた自分が、今こうして震災を悲しむことができるということに、不思議さを感じずにはおれないでいます。


認知症事故賠償訴訟                 (2016年3月)

 十年ほど前、認知症のおじいさんが徘徊中に電車にはねられて亡くなるという痛ましい事故がありました。それをめぐって、家族が鉄道会社への賠償責任を負うかどうかという裁判が続けられてきましたが、先日、家族に責任はないという最高裁の判決が下りました。この裁判をうけて、地域社会が認知症患者や家族を支える仕組みをつくっていかなければという声が上がったり、認知症患者による事故の損害を国が補償する制度を整えるべきではないかという意見が聞かれたりと、社会全体で認知症に対する理解を深めようという気運が高まってきました。これからの世の中のことを考えると、これはとても大切なことだと思います。
 ただ、今回の出来事で私たちがひとつ見落としているように感じるのが、鉄道によって一人の尊い命が失われたという事実です。私たちの生み出した文明の利器が、かけがえのない命を奪うことのあるものだという点については、一度も問題にされることなく、管理責任の所在や、損害補償のあり方ばかりが問題とされてきたわけです。もし世の中が自然のままの環境であったなら、徘徊するおじいさんの身を心配することはあっても、責任や賠償ということを考えることはなかったように思います。自分たちの都合のために、土地を分断して線路を引き、大きな鉄の塊を高速で走らせて、このおじいさんだけにとどまらず、多くの生き物の命を奪ってきたのが私たちです。そういう自分自身の罪に目を向けることなしに、特定の誰かに責任を問い、経済的な損失の補償を考えるばかりであったというのは、何とも恥ずかしいことではないでしょうか。
 本来、この世の中の一つ一つの命は、どれもが例外なく、戴いた寿命を全うしていくものです。けれども、時としてそれが奪われること、それを奪ってしまうことがあるのも避けられない現実です。そこに痛みを感じるのか、それとも他人事としてやり過ごしてしまうのか、ということが私たちにとっての大きな問題です。他の命が奪われる痛みが感じられなくては、自分自身の命の尊さも受け止められないのではないかと思われます。


不倫                        (2016年2月)

 先月から、世間では有名芸能人の不倫騒動が話題になっています。さすがに、お参りの際にそうした話題をすることはあまりないのですが、それでも、先日面白いお声をお聞きすることがありました。「浄土真宗でも不倫はいけないことになっているの?」というお言葉です。思いもよらない疑問でしたので、考えさせられてしまいました。
 「不倫」というのは、倫理に反する行いという意味ですので、世俗の倫理道徳を超越したものである宗教においては、別に悪いわけではないということになるのでしょうか。しかし、仏教には不邪淫戒というものがあります。つまり、不倫は戒められるものとされているのです。なぜ超世間の法を説く仏教が世俗の倫理である不倫を戒めておられるのか、それは、私たちがどこに目線を置いて生きているのかという問題です。
 仏教では、倫理に反するから不倫を禁じるのではありません。他者を傷つけることであるからそれを認めないということです。私たちは、男女の関係にしろ、親子の関係にしろ、「愛情」というものを美化し、疑いもなく良いものだと思い込んでいるところがあるようです。しかし、仏教ではそれを「愛欲」と見抜いてくださっています。どこまでも自分の愛を貫くことに躍起になって、他者にもまた愛があることに目が向かない私たちです。愛情が他に移ることは止められないことですが、だからといってその愛欲にしたがって人を傷つけることが正当化されることは決してないのだと教えられているのです。


謝り続ける使命                   (2016年1月)

 新しい年が始まりました。新たなスタートを切る節目となる時ですが、私たちには、忘れ去ってしまうわけにはいかないこともたくさんあります。福島の原発事故から五年近く経ち、近頃では、停止していた各地の原発も徐々に再稼働が始まりつつあります。確かに、事故が起こらないという前提に立てば、原子力というのは、空気も汚さない理想的なエネルギーに思えます。ただ、あの事故の後に味わった被害の大きさ、特に放射能の影響が無くなるまでの気の遠くなるような年月を思ったとき感じられた恐ろしさが、だんだんと薄れてきているのは、それでよいのだろうかという気がします。
 今年保育園の年中である私の息子は、あの当時には、まだ一歳にも満たない赤ん坊だったことが思い出されます。ということは、今の幼稚園の年少さんたちは、事故後に生まれた子供たちということになります。生まれる前に起こった事故によって、心からのびのびと戸外で遊べない現在の福島の子供たちのことを思うと、改めて大変なことを起こしてしまったのだと痛感します。
 私たちは、なかなか自分のしてきたことの非を認めることができないものですが、近頃では、この被曝のことに関してまでも、「もう大丈夫」「そんなに大したことではない」という空気が、当地では広がりつつあるそうです。犯した過ちを背負い続けるのは苦しいことではありますが、ここで、子供たちに対して「申し訳ないことをしました」と頭を下げ続けることを放棄してしまっては、本当に子孫に何も残すことができない、虚しい大人になってしまいそうです。

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