日々雑感2017


「消費者」でなく「主権者」の私          (2017年12月)

 今年もいろいろなことがありましたが、「いのちの尊さ」とは何なのかということを考えさせられる出来事が多かったように感じます。そうしたなかでも、今年十月に発覚した、神奈川県座間市での九人連続殺人事件はまだ記憶に新しいのではないでしょうか。この事件の容疑者は、自殺願望を語る人を言葉巧みに誘い出して殺害に及んだということですが、その容疑者の言っていた、「本当に死にたいという人はいなかった」という言葉にはとても考えさせられました。自殺を選ぶといっても、大部分の方は、決して「死にたい」わけではなく、「生きることに耐えられない」のだということです。死にたいわけではないのに死を選ばざるを得ないほどに自分に耀きが見いだせないのは、やはり悲しいことだと思います。
 命が尊いということは、誰もが当たり前のこととして分かった気になっています。しかし、命のどこが尊いと思って私たちは生きているのでしょう。現実に、どんなに尊いものだと言っていても、自らその命を絶たずにはおれなくなることもあるわけです。私自身はどうなのかと思い返しているとき、ある言葉を聞いてドキッとさせられました。ジャーナリストで、若者の貧困問題に取り組んでおられる雨宮処凛さんが対談でおっしゃられていたのですが、「私たちは企業に対してのものすごいクレーマーにはなるけれど、政府に対してものを申そうとは思わない」というご指摘です。確かに、どこかのメーカーが不祥事を起こすと徹底的に批判を浴びせるのですが、社会の不条理に声を上げることはなかなかしづらいです。
 なぜそうなのかというと、「私たちは一主権者としての教育を一切受けていなくて、消費者としてのふるまいしか教えられていない」のではないかと言われます。主権者というと固い言葉ですが、一つ一つの命がそれそのままで無条件に尊いということを言っておられるのではないかと思います。お金を払っていればそれ相応の権利が自分にあると思えても、経済的な裏付けがないものには価値の見出しづらい世の中で、自分の尊さを感じることが難しくなっていることは事実です。ただ、「あなたがあなたのままに、私が私のままに、間違いなく尊いのだ」と教えることは、学校教育に丸投げして済むものではありません。実際に世の中を生きる私たちが、お互いにそのことを確かめあっていける世界を、仏さまは願っておられます。


異常なこと                    (2017年11月)

 先日、お参りの際にお話を伺っていたところ、はっとさせられる話をお聞きしました。その方が近所のスーパーに買い物に行かれたところ、たくさんのお惣菜のならんでいるコーナーで、前からやってきた二人のおじいさんが、「一回りしてきたけれど、何にも食べたいものがないなあ。ぜいたくな世の中になったもんだ」と話しておられるのを聞かれたということです。確かに、物の少ない時代を経験されてきた方にとっては、食べ物が並んでいるのに食べたいと思えないのは異常に感じられることでしょう。言われてみればその通りなのですが、私自身は、それをまったく異常だとは気づいていませんでした。
 あらためて考えてみると、本当は異常なことなのに、それを異常と気づかないまま過ごしていることが随分あります。人からものをいただくときなどにも、「こんなに大きなものどこに置こう」「賞味期限が近いけれど食べきれるかしら」、そんなことばかりが気にかかります。本来であれば、その方がそれを私にくださろうという、そのお気持ちの有り難さを真っ先に感じるはずなのに、それを素直に感じられないのです。そして、それが異常なことだとすら思わない私です。
 異常なことを異常と感じられないのは、私たちが生きていくうえで大変危険なことです。人や自分を傷つけ、生き方を窮屈にしていくことにもつながるからです。だからこそ、仏さまの教えに自分の日常を問い返し続けていくことが大切なのだと、あらためて思い知らされております。


北風と太陽                    (2017年10月)

 このところ物々しいサイレン音が鳴り響くことが多くなっています。北朝鮮のミサイル発射に際してのJアラート(全国瞬時警報システム)ですが、5分かそこらで飛んでくるミサイルですから、もし弾頭が備わっていたなら、近場でいくら頑丈な場所に避難したところでどうにもなりません。どうも、いたずらに危機感ばかりがあおられているように感じられます。
 昨年から施行された安保法制は、私たちの国の軍事行動を大幅に緩和しました。この法制が成立するときの触れ込みが、これが抑止力となって日本の安全性が高まるというものでした。しかし、実際の北朝鮮の行動を見ると、どうやら思惑通りにはいっていないようです。相手を威圧して均衡を保つことは本当の平和とは言えないということなのでしょう。その法を作った政府が、今月には選挙を行って、さらに北朝鮮に対して強い圧力をかけ続けていくことに対する賛否を問うということです。それにどう答えるべきか、考えさせられます。
 戦後のサンフランシスコ講和会議において、セイロン代表として出席されたジャヤワルダナ氏は、日本の自由と独立を擁護するスピーチをされた際に、仏陀の言葉を引用して、「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」と言われました。今こそ味わうべき言葉ではないでしょうか。


忘れないって知性なんです             (2017年9月)

 先月の広島・長崎の原爆の日には、日本にとどまらず世界各国でも平和を祈る行事が行われたようです。そういうなかで、当事国である日本が核禁止条約の批准を避け続ける姿が何とも情けなく映ります。悲劇の教訓は一体どこにいってしまったのでしょうか。
 さて、当寺でも原爆の日と終戦の日に「平和の鐘」を撞きました。これは、誤解されがちですが、「鎮魂の鐘」ではなく、「勿忘(わすれな)の鐘」です。そもそも仏教で鐘を鳴らすのは、「これから仏さまの教えを聞きます」という合図です。その仏さまの教えというのは、私たちが日々の生活に追われて見失いがちな「忘れてはいけない大切なこと」に気づかせてくださるものです。
 先日目にしたコラムに、「忘れたいこと、忘れなければならないことは、たしかにある。けれども、人には忘れるという「自然」にあらがってでも忘れてはならないことがある」といわれていました。そして、それに続いて「忘れないって知性なんです」という言葉が紹介されていました。仏教では、それは「智慧」のはたらきとよばれます。
 私たちは、自分で体験した衝撃ならばそうそう忘れることはありませんが、当事者でないことを忘れないでいるのは難しいことです。しかし、体験していなくても忘れてはいけないことがあります。それを忘れさせまいとする先人の声に耳を傾けさせられるのが、仏さまの智慧のはたらきです。


生まれによって賤しい人となるのではない。      (2017年8月)

 二重国籍を指摘された国会議員の方が、それを解消したことを証明するために自身の戸籍を公開されました。成人が他国の国籍も持っていることは国籍法に違反する恐れがあるということですが、それは司法関係で判断する問題であって、一般多数の人に公開することではないように思います。これを政治的判断というのであれば、そういう政治を志す方に、差別のない自由な社会を望むことができるのだろうかと感じてしまいました。
 もちろん、国籍や家柄といった「生まれ」が事実としてあることには違いありません。しかし、私たちの悲しい性として、それをただ単に「その国に生まれたひと」「そういう血筋のひと」としてだけでは見ることができないのが現実です。私自身、先日名古屋であった 荒々しい銃撃事件のニュースを見て、それが中東の人同士の抗争だと知ったとき、「さもありなん」と感じてしまいました。国や血筋でその人の人格にまでレッテルを張って、あたかもそれが真実であるかのように思い込んでいる自分を、恥ずかしながら否定できません。
 今回の問題も、「差別しているわけではなく、単なる公人としての説明責任だ」と言われる方がありますが、私たちの差別心はそんなに甘いものではありません。少しでも差別につながりかねない言動は、とことん避ける注意が必要だと思います。


聞く耳                      (2017年7月)

 先月の国会で、かなり難しい問題をはらむ法案が、丁寧に審議されることもなく成立してしまいました。その前には、国連特別報告者によって、この法案による人権侵害を懸念する書簡も届いたのですが、私たちの国はその言葉に聞く耳を持たず、自論を主張して抗議の意を示すだけでした。
 今回の法律の成立過程を通して感じるのは、人の話を聞けないことの恐ろしさです。人間というのは、他者の声が耳に入ってこなくなると、これほどの危うい事も躊躇なく決めてしまえるものなのかと思い知らされます。私自身も、人の話を聞いているようなふりをして自論を押し通す糸口を探っていたり、黙って耳を傾けているように見せかけてその場をやり過ごしていたりというふうですから、 余計にその怖さが身に染みてきます。
 では、どうしたら人の話を聞くことができるのでしょうか。私たちには、心から尊敬できる人の話であれば素直に聞くことができるということがあります。ですから、「話を聞けるようになる」のではなく、「話を聞きたい」と思えるものを人との関係の中に見いだしていくことが、まず大切になってきます。とはいえ、人を選別して、尊敬できたりできなかったりしているのも私の現実です。そういう自分の心の傲慢さにしっかりと向き合わなければ、人の話は聞こえてこないのでしょう。


不安な気持ち                   (2017年6月)

 今度は英国のコンサート会場で悲しいテロ事件が起こってしまいました。日本では、鬼の首をとったかのように「だから共謀罪が必要なのだ」と主張する政治家が相次いでいますが、共謀罪発祥の地である英国でもテロを防げなかった現実から、その実効性を疑問視する声も多いようです。
 世界中で相次ぐテロや、北朝鮮による頻繁なミサイル発射実験など、不安な気持ちを掻き立てられる昨今です。その不安を何とか解消したいと思う気持ちが、私たちを、特定秘密保護法や安保法、更には憲法九条改変へと駆り立てているようです。共謀罪法案についても、説明不足だという意見は多くても、それほど反対運動の盛り上がりは感じられません。多少生活が窮屈になっても身の安全には代えられないということでしょうか。
 もっと身近な日常生活においても、私たちは同じような問題を抱えています。健康や人間関係、社会生活への不安から、その不安が消えるならと、リスクを省みずに目の前に出されたものに飛びついてしまうことがよくあります。カルト宗教などはその心につけこむ最たるものです。意外に思われるかもしれませんが、真実の宗教は不安を消し去りはしません。不安と向き合う力を与えてくれるものです。自由を犠牲にしてまで安易に不安解消を求めていて大丈夫なのか、考えさせられることです。


任せるという選択                  (2017年4月)

 私には直接関係なかったのですが、先日、名古屋市長選挙が行われました。大方の予想通り現職市長が再選されましたが、投票率は著しく低迷したようです。この選挙に限らず、国政選挙でさえも、よく投票率の低さが指摘されています。先日の新聞にも投票を棄権された方の言葉が掲載されていましたが、「選びたい候補がいない」「誰がやっても同じ」「家事や子育てで忙しい」と言われると、ついつい私も納得しそうになってしまいます。
 もちろん、選びたい候補がいなかったり、自分にとってより重要だと思うことが他にあるために、他の人たちの選択に任せる決断をするということもあるでしょう。ただ、そうするからには、どんな人がそれで選ばれようとも、それを受け入れる覚悟が必要です。もし、その選ばれた人によってどんなに悪いことが引き起こされたとしても、「自分が選んだわけでないから」「こんなことになるとは思わなかった」とは言えないのです。
 そこまで真剣に考えていられないと言われるかもしれませんが、仏教では、知っていて犯してしまった罪より、知らずに犯した罪の方が重いと説かれます。罪を罪だとわからなければ、そこから抜け出せないからです。どんな形であれ、自分がその選択をしたという責任を感じ、その結果を省みさせられることが大切なのだということではないでしょうか。


怪しい人?                    (2017年3月)

 先日、当寺の近所で不審火による住宅火災があり、しばらくの間は、月参りに伺いましても、その話題一色でした。負傷者のいなかったことが不幸中の幸いでしたが、損害を被られた方には心からお見舞いを申し上げたいと思います。
 窃盗犯が放火をしていったらしいのですが、事件が事件だけに、その後、近辺では警察の方が聞き込みをしておられました。私も翌日に自動車で通り掛かったところを呼び止められ、「昨日、この辺りで怪しい人を見かけませんでしたか」と尋ねられました。その日はそちら方面には行きませんでしたので、その旨をお答えしたのですが、ふと、「怪しい人というのは、どんな人のことを言うのだろう」と考えてしまいました。ほっかむりをして唐草模様の風呂敷でも担いでいれば一目で怪しい人とわかるのですが、近頃では、町内も住人の出入りや車の交通量が多くなり、普段見かけない人だからといって、怪しんで覚えていることは難しい状況です。こういう感覚になってきたのは、こんな郡部に暮らしている私にも、少しはグローバルな感覚が身についたということなのでしょうか。
 とはいえ、やはりまだ、他の国の方など、外見が私たちと違う人を見かけると警戒してしまう自分があります。この先入観を無くすのはなかなか難しいことですが、「先入観を持って人を見てしまう自分」であることを自覚していなければ、こういう事件のとき、あらぬ疑いを人にかけてしまう危険性があるものだと、今回のことで再認識させられました。


覚醒剤やめますか、それとも人間やめますか     (2017年2月)

 私がまだ小学生のころ、テレビで「覚醒剤やめますか、それとも人間やめますか」というフレーズが流れ、たいへん流行したことがありました。子供ながらに覚せい剤の恐ろしさを感じたことを覚えています。ですから、効果的な良いキャッチコピーだと、つい先日までは思っておりました。
 しかし、薬物の依存症で苦しんでおられた方が、当時このキャッチコピーを見て、「私たちは人間じゃなくなったんだ」と精神的に追い込まれてしまったということを語られるのを聞いて、はっとさせられました。まさかそんなふうに感じられる方がいるとは思いもしなかったのですが、それはつまり、私の中に、「薬物に依存するのは悪いことだ」という思いが暴走して、「そんなことをしている人は、自分と違うダメなやつなんだ」という考えが染みついていたということに他なりません。
 世の中には、悪いことをする人は叱責されて当然だという空気があります。そんなとき、自分は、悪いことをしない「聖者」の側に立って相手を責めています。けれども、本当に、「どんな状況におかれても自分は絶対にそれをしない」と言い切ることができるような私でしょうか。自分に驕り、他人を見下すことを無意識のうちに重ね、いい気になって、自覚もないままに苦しむ人を傷つけて生きている、無神経な自分を思い知らされました。


大雪                       (2017年1月)

 年明けから寒い日が続いています。そういえば、昔と比べてここ数年、この辺りでは雪が降ることが少なくなってきたように思います。それだけに、慣れない雪が降ったときには、より一層あたふたと大騒ぎしてしまっています。
 先日も、鳥取や滋賀では大雪で生活が大混乱していました。一方で、北陸や東北の方の映像を見ていると、そんなものとは比べ物にならないほどの雪が街中に積もっているのですが、地元の方たちは準備もしっかりされていて、落ち着いたものです。以前雪国の方とお話していたとき、「この時期に運転をするときは、多少滑るのを計算してブレーキを踏む」と言っておられましたが、雪に慣れている方はそんなものなのだなと感心しながらお聞きした覚えがあります。慣れということなのでしょうが、同じことが起こっていても、置かれた状況によってこうも受け止め方が違ってくるのが私たちなのだということです。
 私たちは生活に困難が訪れると、疑いなくそのきっかけとなった出来事を困難の原因と考えるのですが、たとえば今回の大雪のように、実際には雪そのものではなく、それに対する準備をしていなかった自分が、状況を困難なものにしていたわけです。雪に限らず、何かこういうことが、自分の生活の中にはたくさんありそうです。

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